ナ氏の暗号 石田 根吉 今年・2003年3月21日から23日にかけて、富戸でマナマコの放卵・放精が観察できました。 午前中には特別な動きなど見られなかったマナマコが、午後2時頃になると急にソワソワし始めました。普段はナマケモノの様に物憂げな動作しか見せないのに、この時ばかりはそれぞれが高い場所、見通しの良いところを目指して動いているように思えました。 ハ 例えば、水深8m程度の岩場の根に取り付いた、写真のマナマコは、10分程の間に左の矢印から右矢印まで一気に登りつめて行ったのでした。これは、ナマコにとっては大移動です。 やがて、コブラの様に鎌首をもたげると、後頭部ともいうべき場所にある生殖孔から練乳の様な精液をニュルニュルと放出し始めたのでした。 ハ その頃になると付近のナマコ達も一斉に首を揺らせながら放精を始めました。 さて、こうして富戸の海でマナマコの放精を見るのは2000年、2001年に続いて3度目なのですが、毎回不思議に思うことがあります。 これまでの経験では、マナマコが放卵・放精するのは1年に1度だけです。但し、その期間は2〜3日は続くようです。この日になるとかなりの広範囲にわたってマナマコは一斉に放卵・放精を始めるのです。今年は、同じ日にIOPでも見られて事を山本敏さんがご自身のHP上でも報告なさっています。 はたして、彼らはどのように申し合わせて一斉の行動を起こす事が出来るのでしょうか。 そこで、マナマコの放卵・放精が見られた3年分のデータを洗い直して見ることにしました。 |
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さて、一つ一つ見てみましょう。潮回りには中潮が多いように見えますが、大潮後の中潮もあれば小潮後の中潮もあるので一概に何とも言えない様に思えます。 月齢も微妙です。満月(月齢15)から新月(月齢28)の間ばかりで、新月(月齢0)から満月(月齢15)の間は一例もありません。さて、これは意味のあることなのでしょうか、それとも偶然にすぎないのでしょうか。 また、放卵・放精時に潮が満ちつつあるのか引きつつあるのかもまちまちです。 ただ一つ確実なのは、放精・放卵は必ず午後2時〜3時頃に行われるという事です。これは僕の潜水時間がそうだからなのですが、実際には、2時前に既に放精を始めている個体も居ますし、3時になってもまだそれは続いています。 でも、時刻だけでは「ナマコの引き金」を説明する手掛かりにはなりそうにありません。 続いて、水温との関係を考えてみました。ナマコの養殖では昇温刺激法という方法で産卵を誘発しているそうなので、水温は放卵・放精と明らかに関係がありそうです。 そこで、富戸の港内にある検潮所の水温データを国土地理院から頂き、ナマコの放卵・放精との関係を考えてみました。 昨年の冬にマナマコを初めて見た12月15日を、ナマコ出現日の標準と仮に決め、この日から放卵・放精日までの毎年の積算水温を算出してみました。 |
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前年12月15日から放卵までの積算水温
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上表がその結果です。3年それぞれの積算水温にはかなりの開きが出てしまいました。3年の平均は1881℃です。 そこで、この平均の積算水温を元に、それぞれの年の理論上の放卵日を求めてみました。 |
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(各色の矢印は各年の放卵・放精日)
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上図を見ると分かるように、12月15日からの積算水温のラインは3年共非常に近接しており、理論上の放卵日はほとんど4月13日前後に固まってしまいました。これは2001年の実際の放卵日(4月14日)とはよく一致しますが、2000年、2003年の放卵日とは大きくかけ離れたものでした。 ちなみに、積算水温のスタート地点を1月1日、2月1日などにずらしてみてもこの傾向に変化は見られませんでした。 どうもうまく行きません。そこで、積算水温の意味を考え直してみました。 海洋生物は或る水温を超えた途端、突然産卵を始めるものではないのでしょう。水温が低かったら低いなりに時間をかけて産卵の準備を整えて行くのだと思います。 仮に、或る魚の産卵までの積算水温が100℃だとしたら、20℃の水温ならば 100/20 = 5.0 (日間) を産卵までに要すると考えられます。ところが、水温15℃だとそれが、 100/15 = 6.7 (日間) に延びる事になる訳です。更に水温5℃だとどうでしょう? 100/5 = 20 (日間) という事になります。そう、計算上は確かに20日間なのです。ところが、現実を考えて下さい。富戸の海で5℃の水温で産卵できる魚など居ないでしょう。つまり、 「これ以下の水温ではいつまで経っても産卵しないだろう」 と思われるレベルが存在する筈なのです。ところが、今の計算の仕方では、低すぎる水温が続いても毎日毎日水温が積算されていることになります。 そんな事を考えたのは、2月1日以降の次の水温グラフを見ていた時のことでした。 |
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放卵日が最も早かった今年2003年の春期の水温(水色ライン)が、最も遅かった2000年(黒ライン)よりより高かったのは間違いありません。これが放卵・放精日に影響したのは間違いないと思うのです。ところが、これを「2月1日から放卵日までの積算水温」として取ると下図の様になります。 |
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積算水温とは、図中の太線で囲まれたエリアの面積の事です。すると、今問題としている1℃や2℃の水温の差などほとんど消し飛んでしまって、2000年の積算水温(黒ライン)が圧倒しているのが分かります。 ところが、15℃以上の水温部分にのみ注目するとどうでしょう。例として同じく2000年と2003年の様子を見てみます。 |
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上図で塗りつぶした15℃以上の部分の面積を比較すると、結構近いのではないかと思えたのでした。 つまり、ナマコの放卵にとっては15℃以下の水温なんてなんの影響ももたらさないと考えるのです。大切なのは15℃以上の水温の積み重ねだけです。 ここで、学者気分で「ナマコ水温」なる温度を定義します。記号は°N。読み方は「摂氏」や「華氏」にならって「ナ氏」としましょう。 °N= ℃ - 15 です。「定義します」などと言う割には式が簡単すぎて少し恥ずかしい。「ナ氏0度=摂氏15℃」以上で、ナマコの放卵のスイッチが入ります。 それでは、このナマコ温度の積算水温で計算し直してみましょう。算出のスタート地点は、夏眠からの目覚めと仮定した12月15日とします。これ以降から放卵日までのナ氏0°N以上の水温を積算していくのです。0°N以下の温度はすべて0°N(放卵に関与しない)と考え一切計算には入れません。 |
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前年12月15日から放卵までの積算ナマコ水温
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結果は上のようなものです。3年それぞれの「積算ナマコ水温」の差は一見小さいように見えますが、水温の定義自体が新しいものなので、この差がどの程度のものなのかはこの時点では判断できませんでした。そこで、平均積算ナマコ水温 = 82.2°Nを元に、理論上の放卵日を逆算してみます。 |
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「やったぁ〜っ・・」 僕はPCのモニターを見つめながらうっとりしてしまいました。理論上の放卵日が実際とほとんどピッタリ重なりました。その誤差僅か3日程度に過ぎません。 今回のナマコ水温という考え方にどんな意味があるのかは分かりません。どれだけ正確なものかも分かりません。専門の研究者の方から見れば噴飯物なのかも知れません。でも、僕が自分の手で辿り着いた到達点です。少なくとも今の自分自身を納得させるには十分な結果です。 さて、もう少しデータを検証しましょう。 まず、積算の起算日を12月15日から2月1日に大きくずらしてみました。ところが、実際と理論の誤差はほとんど変化しませんでした。かなり信頼できそうなデータに思えてきました。 更に、ナマコ温度・ナ氏0度のラインを摂氏14℃に1度下げて計算してみました。すると、理論と実際の放卵日の差が10日以上に広がってしまいました。やはり、 °N= ℃ - 15 が妥当な関係のようです。 ナマコが一体何を引き金に一斉に放卵・放精を始めるのか、その隠された暗号は一体何なのかについては、もう何年も不思議に思って来ました。が、ここに来て漸く僅かな手掛かりを得る事ができた気がします。曰く、 「12月15日からの積算ナマコ温度82.2°Nで富戸のマナマコ は放卵・放精を始める」 であります。 この様な結論は、0.1度単位で水温を、しかも毎日測定していなければ得られなかったでしょう。そうすると、改めて水温を測定するという地道な活動の大切さが分かりました。また、そんなデータを提供してくださった国土地理院の方に改めて御礼申し上げる次第です。 さて、来年の富戸のマナマコの放卵・放精日は一体いつなのでしょう。そして、それは今回の結果を裏付ける事になるのでしょうか。それとも裏切ってしまうのでしょうか。 |
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事務局より 成熟に有効な水温は15℃で、それ以下では成熟が進まない。従って、15℃辺りが成熟の「しきい」となっていると考えるのでしょう。日平均水温を丸ごと積算してしまうと「しきい値(成熟ゼロ点)」より上の僅かな水温の差は薄められてしまうのですね。専門家であれば、しきい値をどう求めるか?どの期間の積算温度を測るか?他の季節の水温は考慮しないのか?等ともっと検証を求めるのでしょうが、ここでは細かく掘り下げる必要はないと思います。水温と生物の生態に着目した優れた観察記録だと思いますし今後の積み重ねも期待されますね。 積算温度の法則 発育に有効な温度(x−a)と発育に要した日数との積はほぼ一定になる。 k=y(x−a) |