南風泊通信記 好きな本

ここは本の内容紹介ではありません。僕のその本についての雑記録です。
また、僕が魚の勉強のために読んだ本は省きます。
いつ付け加えるかも未定。自由にやります。

                      03/17/04 開始 余吾 豊

−  作 品  −

・「旅をする木」 星野道夫 
・「
りゅうきゅうねしあ」 辰巳達男
草原の少年騎手 ラルフ・ムーディ
・「
銛を持つ淑女ユ−ジニ・クラーク
・「
猫の船旅日記」、「ワルシャワ猫物語」 工藤久代
・「内なる島」 リチャード・ネルソン
・「
沖縄文化論−忘れられた日本」 岡本太郎
・「
稚魚を求めて」、「私の魚博物誌」 内田恵太郎
・「モンパルナス動物誌」 江原 順 
・「
倫敦の憂鬱」 古垣鐵郎?
・「
草木夜ばなし、今や昔」 足田輝一
・「
青幻記」、「海の聖童女」 一色次郎
・「
信じられない航海」 トリスタン・ジョーンズ
・「
パリ移動祝祭日」 アーネスト・ヘミングウェイ
・「
逃げろ、ツチノコ」、「幻のツチノコ」 山本素石、
・「
愛を持て渓魚を語れ」紀村落釣
・「
柔侠伝シリーズ」 バロン吉元
・「
肉体の悪魔」レイモンド・ラディゲ
・「一握の砂」 石川啄木 
・「春と修羅」 宮沢賢治
・「アイルランドのような田舎へ行こう」(誌名ではない) 丸山 薫
・「極限の民族」 本多勝一
・「海軍主計大尉小泉信吉」小泉信三
・「近代能楽伝」 三島由紀夫
・「田舎教師」 田山花袋
・「瀟洒なる自然」 深田久弥 
・「わしらのクジラ」 小松練平
・「浴槽の中のワシ」 J・マニックス
・「魚と文化」 秋道智弥
・「先任将校」 松永
・「馬に乗った水夫」ジャック・ロンドン
・「
日本三文オペラ」、「闇シリーズ」、「フィッシュオン」 開高 健
・「世界の果て」 サマセット・モーム
・「津軽」 太宰 治
・「アラスカ物語」、「孤高の人」 新田次郎
・「椿と花水木」 津本 陽
・「辻まこと全集」

ああ、きりがない。

「旅をする木」文春文庫、「イニュニック」・「ノーザン・ライツ」新潮文庫、 「風のような物語」 朝日ソノラマ文庫 星野道夫著

星野さんは、動物写真家として活動中に、カムチャッカで熊に襲われて亡くなった。その最後をヒーローめかして、大きく喧伝する向きがあるようだ。しかし、「旅をする木」の中に、「妻の直子が妊娠しました。少し心配な処があります」と書いている。それは、春になって木の芽が吹いたとか、ニシンが寄せてきたとか、そんな歳時記ではなく、誰もと同じ一人の夫として、人間として、大きな転機を迎えたこと、彼でさえ動揺を受けていることを素直に知らせてくれている。優しい人なのだ。

僕は“弁える”という言葉が好きである。好きなのであって、そうできているというわけではなさそうだ。それは、自分と周囲を見渡すことに始まり、自分と周囲を見渡すことに終わるものだと思う。本当の終わりは無いかもしれない。言葉は好きなのだけど、いつも、それに反した自分を見つける。人間だものね。とても難しい。

この会を作ろうと思ったのは、具島健二さんのお誘いによるもので、彼の近くに坂本耕一君が居たから始まったのかもしれない。あるいは、このお二人にしてみれば、僕が居たから始めたのかも知れない。

具島さんや坂本君と設立の準備を始めた頃、坂本君と僕はある1冊の本を同時に読んでいた。お互いに驚いた。動物写真家の星野道夫さんが著した「旅をする木」である。素敵な本で、その後、「イシュニック」、「ノーザンライツ」等を続けて読んだ。彼の写真が掲載された「内なる島」も素晴らしいと思った。

僕は、自然を、生物たちをありのままに見つめることがどれだけ難しいかと考えてきたように思う。自然を研究し、その姿を見つめた研究は数知れないが、その発露、内容、取り組み方はまことに様々である。生物や自然現象を人間が知的好奇心で観察するというその時点で、すでに尺度と角度をもって見つめ始めるのは避けられないことなのだろう。

人工海浜というものがあちこちに誕生している。汚い海の岸辺に砂が流失しないように砂防堤を作り、遠くのきれいな海岸から持ち込んだ恐ろしく高価な砂を敷き詰め、海岸を清掃し、フェニックス等を植えて景観を整え、周囲に駐車場を作り、家族が暖かな陽光を浴び、うち寄せる波の鼓動を体に一杯に感じて、休日を過ごさせようとするものである。人工的であろうが無かろうが、意に介さない人にとってはそれはそれで良いのかも知れない。

海岸には磯の香りというものがある。主に打ち上げられたホンダワラ類等の海藻の臭いである。人工海浜では、人を雇い、海岸に打ち上がる漂着物やゴミと一緒に海藻も全て除去し、白い海辺を作り上げる。その少し先の海に潜ると泥底のどうしようもない海だが、海に入らない人にとってはそれがきれいな、臭気のない海なのだろう。

海藻のホンダワラ類の一株を手に取り、その気胞の一つを指で押しつぶしてみると、それが破れ、中の気体が大気中へと逃げるのを感じることが出来る。

僕は、星野道夫著の「旅をする木」に紹介された次の詩を読んだ時、ホンダワラの気泡を潰して遊んでいる自分を連想した。

      すべての物質は化石であり、
      その昔は一度きりの昔ではない。
      いきものとは息をつくるもの、
      風をつくるものだ。
      太古からいきもののつくった風を
      すべて集めている図書館が地球を
      とりまく大気だ。
      風がすっぽり体をつつむ時に、
      それは古い物語が吹いてきたのだと
      思えばいい。
      風こそは信じがたいほどやわらかい、
      真の化石なのだ。 
               

備考:正しくは独立した詩ではなく、谷川 雁 著“ものがたり交響”から、星野さんが「旅をする木」に引用した文章である。実に雄大で、しかも繊細。言いたいことが身にしみこんでくる見事な文章だと思います。

ゴミの散乱する海辺は、人間の醜さだけではなく、人間の寂しさや拙さ、自然の悲しさ、そして自然の循環を見せてくれる尊い場でもあると思うのだ。何もない、きれいな海岸は全てを隠してしまったコンクリートの遊び場であることを知らない人が増えるのを恐れる。

都会の中で、科学的な恩恵に育くまれて生活している僕たちは、今、それら全てを捨て、野に、山に出て生活することは殆ど不可能である。休日に、海に潜り、一時の安寧、自然の中に少しだけ足を踏み入れた興奮、知識欲の充足等を得ることのできる人はまだ少数で、しかも、それを家族や同僚に伝えるのにさえ気恥ずかしさを覚えるかも知れない。

夏休みが終わりに近づくと、各地で生物や鉱物の同定をしてくれる講習会が開かれ、子供達が標本を持って集まる。宿題という動機が主流なのが残念であるけれど、微笑ましい光景に思う。ところが、大人達にこういう場はどこで提供されるのだろうか?地域の学習会や同好会に入っている人にはいくらでも先に進む手掛かりやアドバイスを受けるチャンスがあるだろう。しかし、そのような可能性は目を見開いていないと見落としがちなものだし、地域によっては、あるいは分野によっては不足している場合も多いだろう。会に足を運ぶのがおっくうになるのも当然なことだろう。そこは、私が教えてあげましょうという講師が待ちかまえているようで何だか恐ろしくなるのかも知れない。博物館や大学では敷居が高いと思う人も多いだろう。勿論、現在の博物館の中にはその敷居を随分と低くする工夫を凝らしているところも多い。しかし、ダイヴァーに関しては限られたアクセスしかないのが現状だろう。

僕は、水産増殖学講座という大学の教室に17年間も在籍していた。その間、電話で水生生物に関する一般の人からの問い合わせで記憶に残っているのはわずかに2件である。一つは、“マリモを北海道旅行のお土産にもらったのですが、餌は何をあげたらよいですか?”という、おもわずニッコリしそうな暖かいもので、もう1件は、“ダム湖でワニのような魚が釣れました。何でしょう?”というものだった。写真でガー・パイクと分かった。ずっと昔、内田恵太郎先生が居られた頃、“サメの胃袋から人間の頭が出てきましたが、このサメは何という種でしょう?“という恐ろしい問い合わせが警察からあったそうだ。それにしても少なすぎるのではないかと今でも思う。

やはり、恥ずかしいのだろうか?それとも、まあ良いわと思っているのだろうか?僕はやはり恥ずかしさが先になっているような気がする。パソコンショップで僕のような中年は若い店員になかなか相談しづらいのだが、それと似ているのではないかなと思う。

この会では、その気恥ずかしい思いを大事にして、しかし、それを恥ずかしいとは思わずに人に伝える場を提供し、理解を得られるような話術と知識を学び、もっと多くの人が目を自然に向けるような活動を進めるのが最終的な目的になるのではないかと考えている。

その中で、何を弁えることが出来るのだろうか?ここでもまた、試行錯誤と反省の繰り返しを続けるのかも知れないけど、人間だもの。
                           
March 25, 2000

後書き

AUNJの設立準備をしている頃に、具島さんと坂本君へ書いたものを少し手直ししたものです。手直しするほどに、反省が多いと言うことなのでしょうね。坂本君は今、ボルネオに居ます。

【追記:星野道夫さんに】「内なる島」を書いた後に出したいと思います。

 「りゅうきゅうねしあ」

宮本常一著「渚の民族学」の中に、谷川健一氏の著作から「かなし」、「死者のまなざし」、「渚の前では誰も平等」などと言う言葉が引用されて出てきます。高校教員の時に国語科の先生から、「教科書で出てくるのだけれど、一体どういうことを意味しているんだろうね?」と聞かれたことがありました。

僕なりに考えて、彼に読んでもらったものから、少し、ここに紹介します。

渚という場所は、生命が誕生する場でもあり、生命の息吹を感じさせる場でもあります。一方で、いろんな死が起こる場でもあります。沢山の海藻が打ち上がっています。それを死体と感じる人は先ず、居ないかも知れませんが、実際は死体です。鳥に食べられる小動物、乾燥や高熱で死に至る動物も多い。しかし、あまりに日常的な光景なので、殺伐とした場所だと思う人も居ないだろうと思えます。

陸と海が出会う渚は、大古からの生命流動が演じられる場であり、そこに立った人は無意識にそんなことを頭の奥底で感じ取るのかも知れません。それは本能に近く、視床下部で感じ取るものなのかも知れません。渚で人が感じ取る不思議な感情は、言葉に出して説明できないようなものなのでしょう。それが谷川氏にも上手く表現できないことだったのかも知れません。その為に、引用した宮本氏も、すこし、歯がゆいような表現になっているのではないかなと、僕は考えています。

福岡市に居たとき、ある留学生の家族と海水浴に行きました。西アジアの海のない国から来た家族でした。少し波があり、ベールを被ったお母さんは不安げに海を見ましたが、3才くらいの女の子は、奇声を上げて海に走り、バシャバシャ、大喜びでした。勿論、海は初めてです。母親は信じられないと言う顔をしていましたが、お父さんは嬉しそうに見ていました。忘れられない光景です。子供が怖がらなかったのは何故なのでしょうね?

深田久弥氏が、「瀟洒なる自然」の中で、山頂を目の前にしてやむを得ず下山する時に「落第生になったような気がした」と正直に書いて居られます。でも、海ではそんな気になったことがありません。ヨットで大海を渡ろうとして失敗した人は、そんな気持ちになるものなのでしょうか?冒険をしたことのない僕にはさっぱり分かりません。しかし、海に立ち入る時、ほんのかすかですが、おずおずとしたものを感じることはありますね。

それから、漂着物を何故、「寄りもの」と呼ぶのか?と言う点です。
流れ着いた漂着物は次の満潮で再び、海へ運び出されます。人が浜に降りて、たまたま、目にして手に拾い上げて持ち帰ると、それは再び、海へ戻ることがないのですね。こんな出会いに運命的なものを感じ、拾い上げた人はそれを「寄る」と呼ぶのではないかなと想像しています。



僕も夕暮れ時に浜を歩いていると、とても悲しいような、寂しいような気になることがあります。どういう理由なのか、分かりませんが、それを上手く表現して下さったのが、辰巳さんです。「りゅうきゅうねしあ」の中で「爛(ラン)」と言う言葉に出会った時は、とても嬉しくなりました。彼はこう書いています。

以下、工事中

 「草原の少年騎手」ラルフ・ムーディー

小学生の時に繰り返し読んだ本で、本当は日米文化センターから借りだしたものだけど、何故か、今も手元にある。自伝である。愛馬、フューリーが死ぬ場面は何度も泣いた。開拓者の家庭が暖かく描かれ、父と母の原型はこうなのかと感じさせられる。主人公である子供の心理には懐かしい共感を覚えます。芥川龍之介の「トロッコ」を連想する場面もありました。

以下、工事中
 「銛を持つ淑女」 ユージン・クラーク 訳:末広恭雄 法政大学出版会

僕が魚の研究者になりたいと決めた作品。母から16才の誕生日にプレゼントされた。彼女には1985年に会うことが出来、そのことを伝えるとにっこりと笑った。

以下、工事中

  「猫の船旅日記」、「ワルシャワ猫物語」 工藤久代 文芸春秋  03/27/04

猫のことを書いた作品では秀眉であると思う。

「猫の船旅日記」。ポーランド文学の翻訳家であるご主人とワルシャワ生まれの猫との旅日記である。貨客船での船旅で、船内の猫の様子が実に生き生きと記されている。翻訳作業をしながら猫と一緒に船旅をするなんて、とても良いなあと思う。貨客船というのが、また、憎い。貨客船だから、様々な港に入り、荷の積み降ろしと積み込みをする。停泊中は、猫を船室に残して、買い物などに出かける。良いなあ。船室を出るとき、ドアの隙間から、「夕方には戻るからね」と声を掛けるが、猫はテーブルの上に座って、舷窓から港の様子をじっと見つめていたそうだ。クレーンの動きが得にお気に入りだったとか。

このご夫妻は、ワルシャワで生活している時に、この猫と出会い、日本に連れ帰った。その後、猫を家に残して、貨客船の旅をする。帰国すると、猫が心身症になっており、約一ヶ月の間、工藤さんは猫から無視されたそうだ。その病気が治る場面が泣かせるのである。これに懲りた著者は、面倒な手続きをこなして、猫を船に乗せる。優しい筆致の佳品である。

「ワルシャワ猫物語」は、いずれまた。

僕は、猫と犬とを飼っているが、猫の方が好きである。犬は単純に人を信頼しすぎる。その一方的な信頼を、僕はいとも簡単に切ってしまう。すると、実に悲しそうな態度を見せる。猫は、そんなことをしない。一度裏切ると、許してくれないように思う。だから、そんな、あやふやな信頼関係はこちらも願い下げだし、もとより、猫は信頼など屁のように思っていると考えている。 猫の好きなようにさせている。

ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」にこういう会話がある。

「人間のアナーキストなんて嘘っぱちだよ。真のアナーキストは猫だ。猫は自分の糞を埋めるからな」

けだし、名言だと思う。

猫は時々、人間くさい態度を見せてくれる。

3代目のフキの話。 ある日、椅子から椅子へ飛び移るとき、足を踏み外した。僕と子供が見ていた。大笑いすると、猫は背中を見せてじっとしていたが、背中の毛が波打っている。筋肉が痙攣しているのである。それを見て、また、大笑いした。厭なところを見られたもんだと思っていたのだろう。

この話をすると、猫好きでない人は、フンと笑う。

ところが、ある猫好きの人にこの話をすると、「我が意を得たり!」という顔をした。その方は、こう言った。猫が塀の上を走ってきた。途中で足を踏み外し、塀から落ちそうになってもがいていた。あまりにおかしく、主人と大笑いした。塀の上に這い上がり、こちらを見て、鼻にしわを寄せて、小さく唸った。そして、しばらく家に帰ってこなかったという。

猫の好きな人は分かるでしょ。

犬はリキといい、もう、14年になる。3代目のフキと初代ガッチが居る時に、子供が拾ってきた。足がフラフラしていて、ノミだらけだった。子犬だったので、猫は馬鹿にしており、ずっと、優位に立っていた。その時から、リキは猫に吠えなくなっている。今でも、野良猫が来てリキの餌を盗み食いしていても、じっと見ている。南里さんは、「この犬は馬鹿じゃないのか」と言っていた。

3代目のフキは大分から福岡へ引っ越しする少し前に、家を出てしまった。理由は全く分からない。ガッチは、それよりも前に居なくなった。尻尾の長い綺麗な雄猫だった。鼻が詰まり気味で、布団に入ってくると、顔を布団から出し、僕の顔の横で寝息を立てていた。フキよりも後から家にやってきたので、フキには頭が上がらなかった。でも、初めて家に連れてきた時、威嚇するフキを恐れず、近寄っていき、直ぐに慣れた。ガッツがあると言うことで、ガッチという名を付けた。

ガッチが我が家に来た経緯。

女子高の教員の時、猫を飼いたいと思い、授業の時に、「子猫が産まれたら、一匹欲しい」と頼んだ。「雉で、尻尾が長い猫が好きだぞ」と付け加えた。すると直ぐに、ある生徒が希望通りの猫を連れてきた。それが3代目のフキである。バスケット部の生徒だったので、放課後になるまで部室に置いてもらった。数日後、別のクラスに行った時、猫の鳴き声がした。「しまった!」と汗を掻いた。

案の定、別な生徒が猫を持ってきていた。それがガッチである。その生徒は僕がコーチをしているソフトボ−ル部の1年生だった。おとなしい子で、鈴木と言う姓だった。「鈴木、すまん。もう、一匹もらったんだよ」というと、顔がこわばり、猫を連れて教室を出ていってしまった。「先生、悪いよ。2匹飼えば良いのに。ケチやねー」と生徒達が、ぶーぶー言った。

放課後、グランドに行くと鈴木は普通通りに練習の準備をしている。いつ、どう、話そうかなと思っていると、別の生徒が来て、「先生、あの猫、私がもらっても良い?尻尾の綺麗な猫だから、好きなんよ」と言う。しめた!と思って、「そうか!お前がもらってくれるか?あー、よかった。」と大きな声を出してしまった。その時、彼女の顔が急に曇った。

ふと見ると、鈴木がボールの入ったコンテナを持って、こちらを睨んでいる。しまったと思ったが、もう遅い。

「先生、猫は持って帰る」と言って、走っていった。

その日、練習が終わって、鈴木に長く話し、やっと、ガッチを貰って家に帰った。

4代目のフキは、福岡に来て、子供が拾ってきた。隣の畑で見つけたのは僕だが、もう、猫は飼うまいと思っていた。「頼むから、連れてくるな」と言ったのに、次男が妻と二人で探しだし、側溝の下から連れてきた。見まいと思ったが、見て抱っこしてしまった。余りに綺麗な毛並みで、尻尾が実に見事だったので、一瞬にして陥落。また、フキと名付けた。アンゴラかペルシャの血が混じっている雉猫で、毛が少し長く、柔らかい。見た人は皆、「良い猫ですねえ」と誉めてくれる。良いというのは、性格ではなく、見栄えのことである。



4代目のフキ。すましている。

リキは猫というものを良く知っているし、フキは子猫だから、直ぐに二人は仲良くなった。リキは時々、うるさそうにするが、フキはお構いなしにリキにじゃれつく。

リキの散歩から帰ってくると、何処で見ているのか、フキが走り寄ってきてスリスリする。実に可愛い。

2軒隣りの竹田さんがサクラという犬を飼っていた。人なつっこい犬で、走り寄ってきて猛烈にじゃれる。ある日、僕が玄関を出たとき、サクラが走ってきて、僕にまとわりついた。すると、隣の畑から黒い塊が飛び出してきた。フキである。サクラのお尻を引っ掻いた。サクラは悲鳴を上げ、毛の塊が舞い散った。サクラは腰を抜かしていた。

それを見ていた、竹田さんの娘さんが、「あんた、それでも犬ね!」と怒っていた。僕は、塀の上に飛び乗って背中を逆立てているフキに、「お前はそれでも猫か!」と言った。フキは「ファーッ」と僕に怒り、娘さんが大笑いした。

後で、フキはサクラが僕に襲いかかったと勘違いしたのではないかと思った。僕を守ろうとしたのだろうか?「さっきは怒ってご免」と話しかけたが、キョトンとしていた。


フキの左フック、炸裂
 「内なる島」 リチャード・ネルソン 訳:星川 淳 めるくまーる

星野道夫さんの友人の著作であり、彼の写真も素晴らしいが、星川氏の訳も素敵だ。
星川さんは屋久島に在住だそうだが、僕はお会いしたことがない。会うには難しそうな人だと伺ったことがある。僕は未だ会う勇気を持てない。

以下、工事中
 「沖縄文化論ー忘れられた日本」 岡本太郎 中公文庫

僕はこの人を単なる変人、奇を衒った芸術家としか見ていなかった。ところが高校2年の時に、山口県川棚町の漁師から1冊の本を頂いた。岡本太郎の本で、今、持っていない。書名も忘れたが、序文の一部をノートに書き写している。

引用する

青春時代 十余年の巴里生活の終わりに私の到達した結論は絶望的だった。この宇宙の中で、私の存在は一匹の蟻にすぎない。だが、この蟻が傷ついて胸から血がほとばしり出るのを見るとき自分の死とともにこの宇宙が崩れさると考える−崩れさせなければならない。−論理である。しかし、それがまた全く話にならないほど非現実な考えであるということも分かっている。

分かったようで分からなかったが、ちょっと自分が考えていたような人ではないなと思った。それが印象である。釣り、魚、ハードボイルドばかり読んでいた高校生には無理な話だが、それが出会いでした。ちなみに、僕の原稿が初めて印刷となったのは「釣りファン」という月刊誌でした。「槍錆び」という飲み屋を経営し、淀谷一竿という釣号を名乗っていた風流人から、文章を習いました。僕の国語の先生は彼です。

そのずっと後、「沖縄文化論」(初版1972年)を読む。今は、この人のファンである。勝手なものだ。岡本氏は米軍占領下の沖縄を訪ね、この本を著した。三島由紀夫が絶賛したという。僕は復帰前、昭和47年に初めて沖縄へ行った。(渡航証明を取る際に役所でくだらない嫌がらせを経験した。その話は、項を改めてまた何時か)僕もまた、沖縄に強烈な印象を受けた。ガッツーンでした。

4年前、石垣島の本屋で、「高校教科書 琉球・沖縄史」を求めた。これは何だろうと思ったわけです。沖縄県では「琉球・沖縄史」という授業があるのだ。拾い読みをしていると、1880年に清国が明治政府に対し、琉球分割案をぶつけたと書いてある。

1.奄美諸島以北を日本領土とする
2.沖縄諸島を独立させ、琉球王国を復活させる
3.宮古・八重山は中国領土とする。

これよりも先に明治政府は米国元大統領グラントの意見を受けて

1.沖縄諸島以北を日本領土とする
2.宮古・八重山は中国領土とする。

これを「分島、増約案」というらしい。驚いた。こんなこと何にも知らなかったぞ。この分島問題はその後の日清戦争で消えてしまうのだが、日本はかって八重山・宮古を見捨てようとしたことがあったのですね。「高校教科書 日本史」では教えないだろう。大体、きな臭くなるところで授業は終わり、受験に入ってしまうしなあ。

さて、岡本太郎に戻る。こうした厳しい過去の歴史は分島案だけに留まらない。岡本氏はそんな歴史を抱えた沖縄という地と沖縄の人達を真っ直ぐに見て、こう述べている。

少し、引用する

私は自由と言った。このような運命(主に沖縄戦を指している)をたどった、占領と貧困の島について。それはアイロニーではない。本質的にそうなのである。だから奪回されねばならない。ふるい立ち、輝かなければならないものが、ここでは窒息させられているのだ。 

中略

自然と人間をひっくるめて、ともに許容するおとなしい柔らかさ。運命を見抜き、やさしく諦観し、しかも人生を捨てきらないで、自分たちの分量だけで充実して生きることを楽しんでいる。−−そういう善良さと、心情の美しさ故に、かえって頼りない点もある。強烈に、明確にこちらに響き、訴えてくる、そういう鋭い主張、破調というものはない。

沖縄を論じた本は多い。しかし、僕はこれを一番良く読み返す。何処を拾い読みしても、鋭いまなざしが適切で簡潔な文章で表されているのに感動する。司馬遼太郎も沖縄を「街道を行く:沖縄・先島への道」に書いたが、岡本氏に軍配を上げたい。彼は余りに色んな事柄を知りすぎているのではないかと思う。それだけに文章が堅く、感動が少ない。直感的な記述に乏しいのである。それは彼の慎重さであり、歴史家としての良心でもあるだろう。しかし、僕には物足りない。他に、大江健三郎の「沖縄ノート」、比嘉幹郎の「沖縄」、比嘉春潮の「沖縄の歴史」や「沖縄」、太田昌秀の「醜い日本人」などもある。

 「稚魚を求めて」岩波新書、「私の魚博物誌」立風書房、
「魚異名抄」朝日ソノラマ文庫 内田恵太郎著

内田先生は九州大学農学部水産学第2教室の初代教授で、僕が教室に入ったときは既に退官されており、毎年冬に開かれる同門会でお顔を何度か拝見した。南里さんと平戸で調査している時に訃報に接し、「おめえは直ぐにけえろ」と言われ、バスを乗り継いで帰った。後に先生の遺品の内、何冊かの本を分けていただいた。

先生は細身で、背が高く、上品だった。奥さんをとても大事にし、和歌を詠み、静かに晩年を過ごされた。スケッチがとても素晴らしかった。先生の若い頃の学会は、模造紙に水彩で魚の発生図や行動を描いたものを黒板に貼り付けて、口頭発表していたのだ。その一部は未だ、水産第2教室に保管されている。

僕は3代目の塚原教授の「魚類学」を受講した。塚原先生は内田先生のお弟子さんである。塚原先生もスケッチが上手く、何も見ないで黒板に魚の絵をすらすらと描いていた。特徴が良く押さえられ、「上手いもんだなあ」と感心した。

さて「稚魚を求めて」である。これは高校生の時に父親が、西園寺公一の「釣魚迷」と共に買ってきて「読め」と渡された。今、思うに、僕がこうなったのは両親にも責任があるだろう。「釣魚迷」には、パラオでみた南洋庁の行政について、彼は辛辣なことを述べている。岡本太郎と同じ見識である。

以下、引用する。

「文化的生活を教えてやるのが国際連盟から要求されている私どもの任務ですから」と南洋庁の役人は言った。しかし、果たしてそうであろうか?安物の雑貨と化粧品が文化的水準を形作るものだろうか・・・・?

また、横道に入ってしまった。新書版であるが、内容の濃さには圧倒される。今でも、研究のテーマになるものがあちこちに散りばめられている。例えば、鹿児島県の松ヶ浦で採集されたハタンポの腹から溢れ出した卵は受精していたという。その真偽を確かめるにはまだ至っていない。どうなのでしょうかね?

内田先生は、東大から朝鮮総督府水産試験場を経て九州大学に着任された。一時、天草富岡の臨海実験所に居られたこともある。この時、技官として内田先生のお手伝いをして居られた本田輝雄さんが今、僕の家の近くに住んで居られる。本田さんからは色々な若き日の内田先生の様子をお聞きすることができる。

先生は素潜りがお好きで、本田さんは良くご一緒したという。「とにかく、潜りはお上手でした。それに、銛で魚を突くのも玄人でしたよ」とのことだ。天気の悪いときなどは水槽の前で魚のスケッチをされていたそうだ。このスケッチ癖は、福岡市の九大に移られても続き、教授会で、退屈な議題が続く時は、そこでも魚の絵を描いていたらしい。

「わたしの魚博物誌」は、「稚魚を求めて」と内容が大幅に重複する。しかし、「河童の生物学」、「人魚考」、「中国文学の魚」など、別の内容も含まれている。「魚異名抄」は魚好きには必携の書だろう。岩満重孝の「百魚歳時記1ー3」中公文庫も同じく重宝する。

 「モンパルナス動物記ーバルザックの風流滑稽譚に敬意を表して」
 江原 順著 ノーベル書房

著者は絵画の評論家である。僕は評論家というものを殆ど知らない。また、あまりお近づきになりたくない。友達に勧められて読んでみたのだが、この本は好きになってしまった。

以下、工事中
 「倫敦の憂鬱」古垣鐵郎(この著者名も定かでない)

この本は無くしてしまった。古書店に探してもらっている。一部だけノートに抜き書きしている。

初刷りの明朝の新聞を手にして、彼は寝ている細君を呼び起こして、この大事件を知らさないではおられなかった。
「ヘレン、もう寝てしまったのかい。
ご覧、俺の書いた記事が新聞に出ているから」
「ほんとう!まあ読ませて頂戴」
二人は興奮しながら紙面の隅っこに小さい活字で数行印刷された傑作に読み入った。
「プラットフォームで自殺」というのがそれだった。
妻は小声で遠慮するようにつぶやいた。
「まあ、すてきだわねえ」

以下、工事中

 「草木夜ばなし、今や昔」 足田輝一著 草思社

僕は3年前、ドングリを探していたことがある。その時に買った本である。

ドングリを探していたのは、近くの宗像大社のご神木を見て、変な花をつけるのだなあと感じたことが発端だ。側の立て札には、「楢」と書いてある。「楢の露」と言う名が付いた地酒もある。帰って、植物図鑑を見ると、「ナラ」と言う和名の木はない。楢というのは、ブナ科コナラ属の総称と言っても良い。ドングリ(堅果で基部に殻斗を持つ)を着けるのは、ブナ科のコナラ属、アカガシ属、シイノキ属、マテバシイ属で、落葉する楢類と常緑の樫類に大別される。このご神木は葉や花の特徴から見ると、どうも「カシワ」のような気がした。秋になり、ご神木の下に大きなドングリが落ちていた。ドングリというのは、砲弾型と決めつけていたので、変な格好だなあと思った。図鑑で見ると、「クヌギ」のドングリとも似ているが、葉、花、実からして、カシワなのだと確信した。

ここから、僕のドングリ探検が始まった。ドングリを付けるコナラ属を身近で探してみようと思ったのである。妻も雑木林を歩くのが好きだから、一緒に、いろんな神社やお寺、公園などを歩いた。探せばあるもので、マテバシイ、アカガシ、ミズナラ、スダジイ、コナラ等が見つかった。葉とドングリをセットにし、お菓子の箱に並べた。しかし、カシワは宗像大社で3株見つけただけで、他の場所ではなかなか見つからなかった。また、クヌギはまだ1本も見つけていない。

その頃、ドングリ銀行というものを知った。落ちているドングリを集め、ドングリ銀行に持っていくと、ボランティアスタッフが、通帳を作ってくれる。拾った場所と、ドングリの数を自己申告すると、通帳に数と大きさに応じた、ドングリ通貨で記帳してくれる。カシワ、クヌギ、アベマキは大きいので、価値が高い。例えば、カシワを百個納めると、1000 D.アカガシ百個なら、100 Dとなる。現在高は7000 D。
私は大金持ちである。

ドングリ銀行は、集めたドングリを植え、育った苗木を貯金高に応じて売ってくれる。求めた苗木をどうぞ、植えて育てて下さいというのである。しかし、経営が成り立たず、現在は閉鎖され、僕の貯金は換金できなくなってしまった。再会される日まで、通帳は大事に持っている。

昨年、筑前大島でモイヤーさんを招いて、海辺の自然学校を開いた。実施場所を探しに海野さんと、宗像郡の海岸を歩いた。津屋崎の海岸で、海野さんがカシワを見つけてくれた。彼は陸上植物にも詳しいのである。後から知ったのだが、カシワは北の植物なのだそうだ。北西風が吹き付ける海岸で大きく成長しているは、その為なのかと思った。北海道のゴルフ場などにも多いらしい。北海道へは何度も行ったが、カシワになじむ前だったので、惜しいことをしたものだと思う。エゾツツジが綺麗だと言うことだけは覚えている。

カシワの語源について調べてみると、実に面白い。しかし、これは長くなるので、別の機会に。

と言いつつ。

一度、教員の時に、大分県の少年女子ソフトボールチームをコーチとして秋期国体に引率したことがある。石狩町で試合が行われ、あれよあれよという間に勝ち上がり、北海道チームと決勝戦を闘ったが、惜しくも1−0で破れた。大分県チームは小柄な選手が多く、監督も小柄で、僕もとうていスポーツ関係者には見えない風貌だったそうだ。チームを何軒かの個人宅に分宿させてくれ、なにかれとお世話をしてくれた町内の人達は、その為に「初戦敗退!」と予想していたという。後から聞いた話で大笑いした。しかし、意外に健闘するので、次第に応援熱が高まり、決勝戦相手は地元チームであったのに、御神輿まで作って鐘や太鼓を持ち寄り、町内総出で応援してくれた。試合が終わった後、僕は町内の人の前で泣いてしまった。

この後、チームを連れ、同じ監督、コーチのタッグでハワイにも遠征した。風が心地よく、楽しい試合が出来た。夜、監督と飲み過ぎて、翌朝の試合に危うく遅刻しそうになり、日本私学ソフトボール協会会長から、「前代未聞や!」と、こっぴどく叱られた。丁度、その時、当会講師の麻生さんと吉川さんがハワイ大学で研究しており、一緒にワイキキビーチでビールを飲んだ。その後、水着ショーを見ながら大きなステーキを頬張った。どちらも実によかった。試合の合間に、ランドール博士がいるビショップミュージアムを訪れた。手紙で訪問を知らせ、アポを取っていたのに、すかされてしまった。

また、脱線。

足田さんが、本の中でドングリの育て方を紹介している。ご神木の下で拾ったドングリを腐葉土をたっぷり入れた植木鉢に埋めておいたら、翌年の春に芽吹いた。下がその写真である。

宗像大社には、中津の宮と沖津の宮をいう分所があり、それぞれ、筑前大島と筑前沖の島に奉じられている。どちらの島も調査で良く訪れた。宗像大社の社務所に、筑前沖の島の調査でお世話になった、養父さんという宮司をお訪ねした。ご神木のことを少しお話ししたく、また、沖の島調査の報告書やカシワについて調べたメモをお渡ししようと思ったからである。しかし、養父さんはすでに引退されていた。

発端話が長くなった。どうしてこんなに流れるのだろう。

3年前、スーパーの駐車場で開かれていた植木市で、ハクモクレン(別名:ビャクシン)の若木苗を求めた。2回冬を越して、1週間前に2つの蕾が開いた。香しいような白い花弁である。コブシも好きだ。この仲間はモクレン科モクレン属で、マグノリア属とも言う。日本には5種が生育している。

このマグノリアについて、足田さんは、宮沢賢治の「マグノリヤの木」から以下の文章を引いている。

「マグノリアの樹は寂静印です・・・・あの花びらは天の山羊の乳よりしめやかです。あのかをりは覚者たちの尊い偈(げ)を人に送ります」

以下、足田さんの文章から要約して記す。

マグノリヤとはホオノキを指しているという意見があるが、一般には、コブシを指していると思われている。コブシはヒキザクラ、タウチザクラとも呼ばれる。

約1億年前、白亜紀に、マグノリアのような、多数の雄しべと雌しべが螺旋形に集まった花が出現したらしい。この花には沢山の花粉があって、甲虫類(鞘翅目)の祖先の虫たちが花粉を食べに集まっていた。これが花と昆虫の付き合いの始まりだとされる。


花弁が散った後のハクモクレン。中央が雌しべ、周囲に雄しべ。


雄しべ、雌しべが落ち、子房が膨らみ始め、若葉も開きだした。
撮影:余吾 豊

植物の進化は、藻類、シダ植物、裸子植物、被子植物の順である。一方、昆虫では、トンボ、カゲロウ、ゴキブリ、カメムシ、甲虫、ハサミムシ、ハチ、アリマキ、チョウ、ガ、シロアリ、ノミの順となる(相当に大ざっぱ)。花粉を持った花はジュラ紀に現れるが、この仲間は白亜紀以前に絶滅する。裸子植物の花は風によって今も花粉をまき散らしているが、マグノリヤのように昆虫によって花粉を媒介する虫媒花が主流となっていく。この結果、花は様々な構造になり、花密を作り出したり、花の色を多彩にして昆虫を誘うように適応放散していく。昆虫の口器も多様に進化する。いわゆる共進化が起こるのである。

詩歌ではコブシに辛夷の字を当てる。しかし、これは誤りで、中国で辛夷というのは、モクレンかシロモクレンである。コブシとシロモクレンを混同する人が多い。花びらの数、花の立ち方、開き方で両者は区別できる。シロモクレンは9枚、立って半開き、コブシは6枚、平たく開く。コブシの花は子供が手を広げたようにも見える。これが語源である。

足田さんは長く「科学朝日」の編集長を務められた方で、この本は、色んなことを教えてもらえる。03/22/04

 「青幻記」・「海の聖童女」角川文庫、「左手の日記」 一色次郎 

「青幻記」は深夜映画館で、作品を偶然に見ることになった。とても惹かれたので原作を探した。多くの友人にも勧めた佳品の一つである。作者が51才の時に、太宰治新人賞を受けた作品。舞台は沖永良部島である。肺を病む母親と主人公が、現地でホウと呼ぶタイドプールで、デリスという植物の根で魚を麻痺させて捕る場面がある。この後、悲惨な母の死を目の前にする。母と長らく離ればななれの生活をした後に、やっと二人で素朴な遊びに興じていたのに、少し残酷な設定である。しかし、この場面より、母の胸に甘えようとする主人公を「病気が移ります。近寄ってはなりません」と後ずさる母の姿に涙が溢れるのだ。

洗骨という島の風習も出てくる。あくまで蒼く、白く、あくまで美しい渚で母親の骨を海水で洗い、荼毘に付す。なんという色の対比、命の対比だろうか。母親を亡くしたばかりの時には読まない方が良い。

「海の聖童女」舞台はある無人島。父親と美しい少女の漂流記である。この少女は、ニック・アダムズの「最後のふるさと」に出てくる彼の妹と妙にイメージがダブルのである。僕は読みながら、二人が流れ着いたのは、どの島だろうか?どの辺りだろうかと想像したが、見事に外れた。これはハッピイエンドである。

「左手の日記」彼の19才から20才にかけての3ヶ月の日記。

一色次郎さんの作品群の底に流れるテーマは日本本土大空襲である。

以下、工事中
 「信じられない航海」 トリスタン・ジョーンズ 宮本保夫訳 舵社

何故、読むに至ったのか覚えていない。読み出すと止められなくなった。ノンフィクションである。世界最低水位の死海で帆走した彼は、次に最高水位のチチカカ湖を目指す。アンデスを越えてチチカカ湖までトラックでヨットを運び、湖でクルーズし、その後、アマゾンを下り(
不幸にも乾期となり、線路の上を人力で押して運ぶのである)、大西洋に出る話だ。この人は片足がない。そんな記述は本文には一切ない。泣き言を言わない。訳者後書きでやっと知ることになる。途中で自分の虫歯を抜く場面などは、他人事のように書いてあり、その記述がまた、傑作である。様々なトラブルを他人事のように、切り抜けていく。船乗りとしてのユーモアとガッツが全編に溢れている。

その部分を引用する

船の上で歯を抜くには、コンパニオンウェイの脇にある舷窓に頭を突っ込んで手を船の中側に伸ばし、抜歯器具でまっすぐに引き抜くのである。麻酔剤が無かったらこれは相当に痛いやり方である。ボトル半分のブランデ−を、抜歯の前と後の2回に分けて飲むと効き目が大いにある。風上に向かっていると船の急な突き上げが抜歯を容易にしてくれる。・・中略・・この手術で一番困るのは、自分への哀れみに抵抗することである。この感情は恐怖によく似ていて、問題を解決する妨げになる。しかし、歯そのものを憎んでやると効果がある

歯科医院に行くときは、これを参考にしましょう。間違っても、歯科医師を憎んではいけません。

 「パリ移動祝祭日」 アーネスト・ヘミングウェイ 訳:福田恒存 三笠書房

忘れられない本である。大事にしたい。1冊を選べと言われればこれを選ぶだろう。高校生の時に、学校の図書館で、「老人と海」を探すと、この作品とセットになっていた。その時は、こちらは全く読まなかった。「今日は何処で何を食べた」、「誰と会った」、「金がない」という話ばかりで、つまらなさそうだと思ったのである。

大学3年の時、「海流の中の島々」と言う本が出た。この本はすっかり気に入って、それからヘミングウェイの本を古本屋で探し始めた。高校の図書館にあったのと全く同じ本が見つかり、「パリ移動祝祭日」を読むことになった。とても、素晴らしいと思った。その後まもなく、三笠書房から「ヘミングウェイ全集」が毎月1巻ずつ刊行された。金は無かったが、これは全て予約し、出版を待ちわびた。特に、ニック・アダムスの短編が網羅されており、大変、気に入った。今も大事にしている。「心臓が2つある大きな河」や「最後のふるさと」などは特に好きだ。

「パリ移動祝祭日」の序文は、名文で、名訳だと思う。青春時代に読むとぐさりと来るものじゃないだろうか?ノンポリ学生で、デモを苦痛に感じ、デモよりデートやクラブ活動やアルバイトを選び、クラス決議で決まった授業ボイコットを破って(少しは抵抗した)、大好きな体育の授業に出たりして、クラスで吊し上げを喰らっていた僕は、ヘミングウェイの貧しい巴里生活、上着のポケットに鉛筆削りを入れ、分厚いノートに書き込みをしていた彼の世界に魅力を感じていた。今でもそう思う。教員の時も、組合で動員を掛けられ、行進するのは嫌だった。第1、時間が勿体ないし、無駄だし、恥ずかしいもの。

献辞として書かれた部分を引用する

もし、きみが、幸運にも、

青春時代にパリに住んだとすれば、

きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、

パリはきみについてまわる。

なぜならパリは移動祝祭日だからだ。


「逃げろ、ツチノコ」二見書房、「幻のツチノコ」 釣り人社 共に山本素石著 「愛を持て渓魚を語れ」 紀村落釣 淡水魚保護協会

これらは一緒に語らなければなるまい。同一性行の著者だからである。そして、すべての行動で連んでおり、この仲間(ノータリン・クラブ)は皆、関西人である。何がそこにあるのだろう?

彼らは、ツチノコの目撃者ばかりである。山本素石氏(故人)は襲われている。ツチノコの性情は、凶暴と言う説が圧倒的に多い。しかし、木曳き職の弥助という老人の話では、作業している彼の近くに、コロコロと転がってきて、日がな遊んでいたという(ツチノコは太いので、転がる方が得意なのだそうだ)。色んな地方名があるが、由来は幾つかの共通した特徴を捉えている。

「幻のツチノコ」より、弥助老の述懐をかいつまんで紹介する。

「何か黒いもんがコロコロと出よった。一目見てヨコヅチちゅうことが分かったで。そいつがの、あっちへコロコロ、こっちへコロコロ、ころがってばっかりおって、どこへも行かなんだ。ン? 別段どうもせん。さわると毒を吹くちゅうから、わしゃあ手出しもせなんだがの・・・。さいやなあー、半日ばかり、ころがってあそんどったな。ちっと遠くへ行ったかと思うと、また戻ってきよって、逃げもせんだし、こっちも追ったりせんだて・・・」。

うーん、可愛い。

このノータリン・クラブのことは、田辺聖子が面白く脚色して「すべってころんで」という小説にしている。NHKでドラマ化された。

彼らにはトリスタン・ジョーンズと似た面が大いにある。可愛い大人達なのだが、相当にしたたかで、ふてぶてしく、懐が深く、手強いのである。ツチノコではないが、尻尾を掴ませない。

この話をすると、呆れたような、冷たい目をして、「で、あんた自身は信じているのか?」という紋切りに出会う。こういう手合いに、言いたいことを言うと、互いが不愉快になるのは必定なので、酒の上の席以外ではしないようにしている。大体、人に向かって「アンタ」呼ばわりをするのは、関西語圏ではない九州では失礼なのだ。信じる、信じないと言う対象ではなく、楽しむべき問題だと思っている。彼らが何かを見たと言うことは事実なのである。それがなにか?は、見たことのない人間にとっては、どうでも良いだろうと思うのである。

以前、淡水魚保護協会というものがあり、「淡水魚」という機関誌を出していた。
僕は、新刊が届くと、その内容より、木村英造(紀村落釣と同人物)氏の編集後記を真っ先に読んでいた。めちゃくちゃに楽しかったからだ。山本氏は彼の釣り友である。この人達は、周りの社会人から(家人も含め)決して理解されず、理解を求めようともせず、仲間内だけには従僕で、まっすぐなのだが、ものを書かせると何処まで本当なのか、見極めが難しい。読む方が、のめり込まされてしまうのである。「鼻行類」という本の話を、やはり関西人の川那部先生から聞かされた時、僕はコロリと騙されてしまったが(その被害者は多い)、関西人には話が上手い人が多いと思う。「かなわんわ」。恐るべし、関西人の話芸。まだ書きたい秘蔵のおもしろ話もあるのだが、いささか、ここでは憚れるのでこらえておく。

開高 健の「オーパ」にこういう会話が紹介されている。釣り人とその妻のもの。

「私と釣りとどっちが大事なの?」
「・・・・・・・・・・・、そんなこと、分かっているだろ」

こんなことも

「大人の男と少年の違いは、持っているオモチャの値段だけである」

「愛を持て渓魚を語れ」は、前半と後半で内容が一転する。僕は断然、後半が好きである。彼のお師匠である夢守珍釣先生との釣行記で、実におもろい。はらわたが捻れる。夢守先生がお隠れになった後の、海外旅行記も楽しく、ウフウフと声を漏らしてしまう。

團 伊久磨が何かに紹介していたが、イギリスの貴族社会に「シャチを殴る会」というのがあるそうだ。北極へ行き、氷の割れ目から呼吸のために顔を出すシャチを殴るのである。ひたすら待ちかまえ、出そうだと思ったら走りよって革手袋を着けた拳で殴り、一目散に逃げ戻るらしい。順番以外の人達は、ライフルを持って、白熊を警戒している。一歩間違えると死は確実である。命と高いお金とをかけて、何が楽しいのだろうか?ワタシニハ、シンジラレナイ。金もないけど、ツチノコ探しの方が性に合うなあ。

こういう本と作者を語るのは最高に楽しい。

 「柔侠伝」シリーズ バロン吉元 双葉社

スポーツ好き、中でも格技の好きな僕はこれが好きである。

「柔侠伝」、「昭和柔侠伝」、「現代柔侠伝」、「男柔侠伝」、「日本柔侠伝」と続いた劇画の大作である。明治から昭和まで、様々の時代背景を織り込みながら、柔術家の柳勘九郎、柳勘太郎、柳 勘一、柳 勘平の4代に渡る生き様が描かれている。手塚 治虫の「火の鳥」や水島慎司の「あぶさん」も良いが、劇画の中ではこれが一番好きである。3代目の勘一は、南里さんととてもよく似ている。

2代目、柳勘太郎は背中に太々と「覚有情」の入れ墨を入れている。

原作から、この「覚有情」を彫った義和団くずれの泰山先生の言葉を引用しよう。

「この刺青は、伊達男の体裁でもなければ、英雄豪傑気風を誇示するためのものでもない。ましてや威勢のよい勇や威嚇の意味を持つものでもない。覚有情、すなわち、菩薩の境涯に己をいたらしめるべく鍛錬することにその意義はあるのだ。よいか、勘太郎、この刺青はおまえの心に彫ったのだ。この刺青に誓って己の魔と戦い、世の中の悪童悪趣、輪廻から有情を救済せよ」

この「覚有情」の精神が全編に溢れ、あちこちに面白い挿話や替え歌が紹介され、歴史上の有名人も実名で登場する。作者の時代考証、地方の方言や替え歌などの収集は確かなものだと思う。いつまでも手元に置いておきたい作品である。

「肉体の悪魔」 レイモンド・ラディゲ

これを読んだのは、大藪春彦の「汚れた英雄」の中の一節に紹介されていたからで、予備校生の時に探し出して読んだ。精妙というか、鮮烈というか、自分と同時代の若い人が書いたことに驚いた。

ボードレールとか、誰々とか、フランス人は早熟であるようだし、日本人は晩熟であるようだと言われる。大学の入試制度が全く違うのが一因だと言うことも聞く。しかし、それは個人差もあり、民族、国家の違いに置くべきものかどうかは一概に言えないのだろう。日本でも、若い時に鮮烈な意識を清明な文章で表した人はいるのであって、日本人は大人になるのが遅いというような批評はすべきではないだろうと思う。まあ、現在の大勢に基づいて言えば、そういう傾向があるやも知れないと思うが、僕は今のフランスも、少し昔のフランスも知らないので。語る資格はない。

しかし、このラディゲの文章は、余りにも鮮烈なのである。

例を挙げよう

僕たちは椅子の上に立って、「大人より首だけ高い」と自慢する子供のようだった。

あらゆる愛撫というものは、人の信じている様に、愛撫の小銭ではなく、それとは反対に、情熱のみが持ちうることの出来る最も貴重な貨幣だ。

彼女の両腕は僕の首にかじりついていた。難破したとしても、それ以上烈しくかじりつくことはなかったろう。そして、彼女は僕に助けて貰いたかったのか、それとも僕に一緒に溺れて欲しかったのか、僕には分からなかった。

* でも、やはり、早熟な奇才という気はしますな。「ドルジェル伯爵の・・・」も
良いね。

以下、工事中。

「日本三文オペラ」、「闇シリーズ」、「フィッシュオン」 開高 健

僕はこの人を好きなのか、嫌いなのかよく分からない。ベトナム戦争の従軍記者として、絶望的な状況に陥ったという。その時の彼の様子が著書の中の写真に残っている。おそらく、周りにいた米軍兵士にカメラを渡して写してもらったものではないかと思う。真相は知らない。この写真を凄いと見るか、胡散臭いと見るかで僕は迷う。今でもそうだ。

しかし、この人の文章の巧みさと言うより、その雰囲気は僕に大きな影響を与えてくれた。今でも、町のポスターを見ると、開高の影響が伺える、あるいは模倣したキャッチ・コピーが沢山ある。「○○にして、××」というのがそれである。これは開高が最初なのかどうか?僕は知らないが、彼のおはこである。

僕は小学生の頃、未だ、お酒に親しむ前なのだけど、サントリーのトリスの宣伝が好きだった。柳原良平の絵も良かったし、簡潔で鋭く人に迫る開高の語り口が好きだった。勿論、その頃は、柳原も、開高も知らなかった。後にお二人の作品だと言うことを知った。船好きの僕の蔵書には、柳原の作品や絵葉書が沢山あるし、開高は僕の書棚に専用のコーナーがある。最初に読んだのは、「フイッシュ・オン」である。文章も好ましいが、写真も素敵である。早逝したカメラマンに続き、開高も帰らぬ人になった。

僕が釣り好きだったことは、開高との接点となった。しかし、彼が言うところのスポーツ・フィッシングというのは、何か、カトリック的な要素が伺われ、余り好きではない。僕はもっと原始的な釣り、人が食料を求める釣りが好きなのである。釣りにモラルを持ち込み、それを他人に強要するような行為や、著述は好きでない。僕が好きなのは、シンプルに魚と向き合い、釣りあげ、あるいは逃し、成功したら、その魚を食すことなのである。これは、単に好き嫌いの問題であって、人に強要するものではないと思う。しかし、自分の趣味のために、勝手に外来魚やそこには居なかった魚を放流するなんてという話は、釣りとは別の問題である。

「開高」というのは面白い意味があるのだが、それはここに書かない。鍋物の「ちゃんこ」にも凄い意味があるそうで、開高は「四畳半、襖の・・・」裁判でそれを引いている。この人の凄さは、その人生にあると思う。最近の文壇では、一度、ベストセラーを出した人は永遠にベストセラー作家となっているようだ。厳しい出版業界で不思議なことだと思う。これははっきり言って、茶番である。芸人はそうは行かないだろう。政治家でもそうだ。スポーツ選手でも同じでしょう。まして、一般の我々は過去のことではなく、今の力を求められる。それは自然なことだと思う。何故、文壇は自然ではないのだろうか?

最近のベストセラーを読まなくなって久しい。以前はかなり読んでいたし、関心も持っていた。「文学界」や「ユリイカ」なんてのも読んでいたし、本屋に無料で置いてある出版社の冊子を貰って読んでいた。しかし、もう、その気力が衰えた。同じ事を書いている人が多く、仲間内で誉め合う。臭いよ。しかも、その人達はその行為で同じ裕福そうな生活を続けているのである。それは僕には馴染まないのだ。

開高の良いところは、常に新しいことに向かっていたのである。それを、彼独特の文体で著していく。そして、僕が大事と思うのは、彼の文体が変わらないことなのだ。そこが彼を好きなところである。でも、週刊誌に連載された、彼の人生相談は好きでなかった。言い過ぎである。僕は個人的にそう思う。だから、メールは嫌い。

文壇に馴染まなかった僕の好きな小説家(物書きと言った方が彼らには良いのだろうか?)に、永井荷風と大藪春彦が居る。どうだか全く関知できない人ばかりなので、その二人は僕が知っている範囲でという意味である。開高は文壇には結構、お付き合いをしていた様子。何を言っているかさっぱり分からない人は嫌いだし、そう言う本を売るのは犯罪的行為だと思う。まして、それが入試などに出されたら悲劇である。

しかし、本の値打ちは読む人の力にも依るというのも確からしい・・・.僕は評論で金を貰っているわけでもないし、これからもそういう危ない仕事はしないつもりである。発注が来ないのも予測できるしね。

編集後記


 僕は書物を渉猟する事は好きだ。しかし、ある時に、テーマや作者に逆上せて発作的に探し、集めることはあっても、時間が経ち、もう良いと思うと捨てていく。収集はしない。むしろ、収集したいのは、自分が、「おや、これは?」と思った印象、なにかを探すそうと始めた糸口、感動した文章、そういうものを残しておきたいのである。

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