「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その1.カンジ 03/12/04
南里寛治 1938.7.29 - 2002.9.21
平成14年9月21日、南里寛治さんが亡くなりました。
平成14年の春より肝臓腫瘍による胆管閉塞のために黄疸が引かず、外科及び内科の根治的処置が見いだせないまま、徐々に体力を失いました。昭和13年生まれ。享年64才でした。自宅で家族が見守る中、息を引き取りました。僕はその4日前に、少しだけお話ししました。僕と言うことはよく分かってくれましたが、目は見えていないようでした。
彼は宮城県で育ち、石巻の水産高校を卒業後、東京水産大学漁業学科に入学。中、高校時代は柔道部で、大学では相撲部でした。その後、日本アクアラングに入社し、次いで福岡支社へ配属されたのが九州との縁となりました。北九州市で(株)北九州マリンを設立、その後、前原市に移り、(株)ベントスを設立。僕は調査顧問として約5年間勤めたことがあります。
彼の告別式の出棺の前に、彼が指導していた小学生達が柔道着姿で、棺の周りに並びました。そして、両手を突きだして、指を順に折り曲げながら握力を鍛える練習を始めました。掛け声は、「イチ、ニッ、サン、ス、ゴ、ロク、スツ、ハツ・・・・」。彼らはこの南里さんの掛け声がおかしくてたまらなかったと涙声で、話していました。
入院する前の南里さん 大分県泊ヶ内
撮影:南里海児(故人の長男)
いま、僕は彼と潜った海の数々、調査の行き帰りに車の中で彼が話したこと、調査の合間に打ち合わせたこと、海の中で、身振りで合図しながら伝え合ったこと、失敗したこと、叱られたこと、誉められたこと、一緒に風呂に浸かって話したこと、飯を食いながら話したことなど、懐かしく思い出します。
春の五島の福江でしたか・・伝馬で潜り、昼休みに小さな入り江に船を止め、エンジンを切るとチャプチャプと波が船を敲く音だけになり、そこで、青い空と松の枝越しに聞こえるウグイスの鳴き声を聞きながら、おにぎりをほおばった時のこと。妙に春になると、何時も思い出します。もう一度、あの船の上に居てみたい。
彼が好きだった事柄、彼が忌み嫌った事柄、笑い声、東北弁、経験談の数々を思い出しています。止めどなく、彼の思い出がよぎります。
虚飾、無駄、権威を嫌い、物事を分かりやすく伝える名人で、手取り足取り、体全体で、誠心誠意、説明して下さる人でした。
彼の略歴を以下に記します。
昭和13年7月29日生まれ
昭和32年3月 宮城県水産高等学校卒業
昭和37年3月 東京水産大学漁業学科卒業
昭和37年4月 日本アクアラング(株)入社
昭和43年8−12月 SERVICIO NAVAL SUBMARINO. S. L. (SPAIN)
昭和45年9月 (株)福岡潜水 入社
昭和45年9月 (株)北九州マリン設立 役員として勤務
昭和53年4月 (株)ベントス 上記を商号変更 代表取締役として勤務
資格・賞罰の欄には
昭和37年 潜水士
昭和47年 救急再圧員
平 成 元 年 スクーバダイヴィングC級スポーツ指導員
とだけ書かれています。海上保安庁、消防署や地方自治体などから、救命、救助での多くの感状を受けており、インストラクターとしての認定も複数の団体から受けていますが、それを書き連ねることはしていません。
「漢」と呼ぶにふさわしい人ではなかったろうかと思います。
以後、折に触れて、「漢、南里寛治」を書き記したいと思います。
ちょっと、思い出話です。
(株)ベントスで、僕は若い社員達と一緒に業務潜水を担当し、魚の見分け方、報告書の作り方等を調査顧問として指導していました。
社長だった南里さんが海藻植生を水中ノートを付けるかたわら、海藻を摘んでは手袋の内側へ詰め込んでいました。船に上がった後で、手の平に置いた海藻の切れ端を眺め、太陽に透かして見つめ、指の間で揉んで手触りを確かめ、臭いを嗅ぎ、口に含んで歯触りを調べていたのを思い出します。また、手袋の中で一緒にしていた他の海藻の色が変わるのを見て、「こいつは硫酸のような物質を出すから、触れた海藻の色を変えるのだぞ」とタバコグサを教えて貰ったことがありました。「臭いもあるから、ほれ、おめえも匂いを嗅いでみろ!」と差し出していました。楽しい人でしたね。
また、見分けの難しい海藻を見せて、「なんで、これがそうなん?」と聞くと、苦しそうにもごもごしながら、「・・・・、そうやから、そうや!」などと言うこともありました。パッと見たイメージがあるのだけど、いわく言い難い自分なりの見分け方と言うものもあったのでしょうね。
海藻のように肉眼で識別する形質の少ない生物は、ありとあらゆる五感を使って調べるのだなあと感心したものです。勿論、これは現場での話で、難しい海藻は持ち帰って標本にし、一部は顕微鏡で調べていました。顕微鏡の前にちょこんと座り、太い指で、焦点をいじりながら、「みんな、見ておけー」などと大声を出していました。現場に出ると、民宿の洗面所で、押し葉標本を作っていました。終えると、「さあ、飯にすっぺ!早くこいやー」と、また、大声で。
海藻に比べ、魚は多くの手掛かりを見せてくれます。と言って、易しいとは口が裂けても言えませんが、手掛かりを多く持つことが大事なのでしょう。
南里さんは、昔、九大の研究室にも時々、顔を出していました。初めて来たときは、ウミホオヅキの写真を持って来ました。僕らが魚の標本写真を撮る準備をしている時に来襲したこともあり、昆虫標本作りの極細のピンで魚の鰭を留めているのをみて、「ヒレッコ(鰭の意)をおっ立ててよー。おめえも好きやのー」などというものですから、若い学生達は大笑いしてましたね。彼は宮城県出身で、その後、東京、福岡と変わりましたから、言葉が混血でした。その後、学生達に彼のものまねが流行りました。
ある時、小さな入り江を網で仕切り、水産試験場がマダイ幼魚を放流して、その後の成長、食性などを調べる実験を始めました。彼のファンである、院生達が気持ちよく大勢手伝いに来てくれました。彼の言動に触れるのが楽しかったからです。しかし、重たい土嚢をヒョイと持ち上げたまま、ロープワークをしている彼の姿を見た青白い学生らは、目を丸くしていました。作業が終わると体は泥だらけ。南里さんは、やおら、パンツも脱いで丸裸となり、浅い海の中に飛び込んで、ハイハイをするようにして体を洗ったものですから、むき出しのお尻がぶるぶると動き回り、学生達はもう大喜びでした。