南風泊通信記 「大好きな人:漢(おとこ)、寛治」 第1部

 とても好きな人が居て、その人が遠くに行ってしまった。この場でその人のことを書くのは、失った後に考えたことで、準備していたわけではない。偲ぶと言うより、その人と親交のあった人々と語り合う気持ちでこれを書いています。

 僕が良く知っていた人を失ったと言うことだけでなく、僕を知っていてくれた人を失ったという現実が、自分がすこし年を取ったということを教えてくれます。
                     03/12/04 余吾 豊

更新記録
03/28/04 「
その9.カンジさんの嫌いなこと
03/27/04 「
その4.カンジ辞典

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その1.カンジ 03/12/04
南里寛治 1938.7.29 - 2002.9.21

平成14年9月21日、南里寛治さんが亡くなりました。

平成14年の春より肝臓腫瘍による胆管閉塞のために黄疸が引かず、外科及び内科の根治的処置が見いだせないまま、徐々に体力を失いました。昭和13年生まれ。享年64才でした。自宅で家族が見守る中、息を引き取りました。僕はその4日前に、少しだけお話ししました。僕と言うことはよく分かってくれましたが、目は見えていないようでした。

彼は宮城県で育ち、石巻の水産高校を卒業後、東京水産大学漁業学科に入学。中、高校時代は柔道部で、大学では相撲部でした。その後、日本アクアラングに入社し、次いで福岡支社へ配属されたのが九州との縁となりました。北九州市で(株)北九州マリンを設立、その後、前原市に移り、(株)ベントスを設立。僕は調査顧問として約5年間勤めたことがあります。

彼の告別式の出棺の前に、彼が指導していた小学生達が柔道着姿で、棺の周りに並びました。そして、両手を突きだして、指を順に折り曲げながら握力を鍛える練習を始めました。掛け声は、「イチ、ニッ、サン、
、ゴ、ロク、スツハツ・・・・」。彼らはこの南里さんの掛け声がおかしくてたまらなかったと涙声で、話していました。

  


入院する前の南里さん 大分県泊ヶ内
撮影:南里海児(故人の長男)

いま、僕は彼と潜った海の数々、調査の行き帰りに車の中で彼が話したこと、調査の合間に打ち合わせたこと、海の中で、身振りで合図しながら伝え合ったこと、失敗したこと、叱られたこと、誉められたこと、一緒に風呂に浸かって話したこと、飯を食いながら話したことなど、懐かしく思い出します。

春の五島の福江でしたか・・伝馬で潜り、昼休みに小さな入り江に船を止め、エンジンを切るとチャプチャプと波が船を敲く音だけになり、そこで、青い空と松の枝越しに聞こえるウグイスの鳴き声を聞きながら、おにぎりをほおばった時のこと。妙に春になると、何時も思い出します。もう一度、あの船の上に居てみたい。

彼が好きだった事柄、彼が忌み嫌った事柄、笑い声、東北弁、経験談の数々を思い出しています。止めどなく、彼の思い出がよぎります。

虚飾、無駄、権威を嫌い、物事を分かりやすく伝える名人で、手取り足取り、体全体で、誠心誠意、説明して下さる人でした。

彼の略歴を以下に記します。

昭和13年7月29日生まれ

昭和32年3月 宮城県水産高等学校卒業
昭和37年3月 東京水産大学漁業学科卒業
昭和37年4月 日本アクアラング(株)入社
昭和43年8−12月 SERVICIO NAVAL SUBMARINO. S. L. (SPAIN)
昭和45年9月 (株)福岡潜水 入社 
昭和45年9月 (株)北九州マリン設立 役員として勤務
昭和53年4月 (株)ベントス 上記を商号変更 代表取締役として勤務

資格・賞罰の欄には

昭和37年 潜水士
昭和47年 救急再圧員
平 成 元 年 スクーバダイヴィングC級スポーツ指導員

とだけ書かれています。海上保安庁、消防署や地方自治体などから、救命、救助での多くの感状を受けており、インストラクターとしての認定も複数の団体から受けていますが、それを書き連ねることはしていません。

「漢」と呼ぶにふさわしい人ではなかったろうかと思います。

 以後、折に触れて、「漢、南里寛治」を書き記したいと思います。

ちょっと、思い出話です。

(株)ベントスで、僕は若い社員達と一緒に業務潜水を担当し、魚の見分け方、報告書の作り方等を調査顧問として指導していました。

社長だった南里さんが海藻植生を水中ノートを付けるかたわら、海藻を摘んでは手袋の内側へ詰め込んでいました。船に上がった後で、手の平に置いた海藻の切れ端を眺め、太陽に透かして見つめ、指の間で揉んで手触りを確かめ、臭いを嗅ぎ、口に含んで歯触りを調べていたのを思い出します。また、手袋の中で一緒にしていた他の海藻の色が変わるのを見て、「こいつは硫酸のような物質を出すから、触れた海藻の色を変えるのだぞ」とタバコグサを教えて貰ったことがありました。「臭いもあるから、ほれ、おめえも匂いを嗅いでみろ!」と差し出していました。楽しい人でしたね。

また、見分けの難しい海藻を見せて、「なんで、これがそうなん?」と聞くと、苦しそうにもごもごしながら、「・・・・、そうやから、そうや!」などと言うこともありました。パッと見たイメージがあるのだけど、いわく言い難い自分なりの見分け方と言うものもあったのでしょうね。

海藻のように肉眼で識別する形質の少ない生物は、ありとあらゆる五感を使って調べるのだなあと感心したものです。勿論、これは現場での話で、難しい海藻は持ち帰って標本にし、一部は顕微鏡で調べていました。顕微鏡の前にちょこんと座り、太い指で、焦点をいじりながら、「みんな、見ておけー」などと大声を出していました。現場に出ると、民宿の洗面所で、押し葉標本を作っていました。終えると、「さあ、飯にすっぺ!早くこいやー」と、また、大声で。

海藻に比べ、魚は多くの手掛かりを見せてくれます。と言って、易しいとは口が裂けても言えませんが、手掛かりを多く持つことが大事なのでしょう。

南里さんは、昔、九大の研究室にも時々、顔を出していました。初めて来たときは、ウミホオヅキの写真を持って来ました。僕らが魚の標本写真を撮る準備をしている時に来襲したこともあり、昆虫標本作りの極細のピンで魚の鰭を留めているのをみて、「ヒレッコ(鰭の意)をおっ立ててよー。おめえも好きやのー」などというものですから、若い学生達は大笑いしてましたね。彼は宮城県出身で、その後、東京、福岡と変わりましたから、言葉が混血でした。その後、学生達に彼のものまねが流行りました。

ある時、小さな入り江を網で仕切り、水産試験場がマダイ幼魚を放流して、その後の成長、食性などを調べる実験を始めました。彼のファンである、院生達が気持ちよく大勢手伝いに来てくれました。彼の言動に触れるのが楽しかったからです。しかし、重たい土嚢をヒョイと持ち上げたまま、ロープワークをしている彼の姿を見た青白い学生らは、目を丸くしていました。作業が終わると体は泥だらけ。南里さんは、やおら、パンツも脱いで丸裸となり、浅い海の中に飛び込んで、ハイハイをするようにして体を洗ったものですから、むき出しのお尻がぶるぶると動き回り、学生達はもう大喜びでした。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その2.カンジの技 03/14/04

約30年のお付き合いで、目を丸くさせられたことが数多い。幾つか紹介したい。

探し出す技:僕は院生時代のアルバイトで、長崎県の水産試験場の調査補助として、南里さんと平戸の志々伎湾や猪渡谷湾、壱岐の湯本湾、対馬の佐須奈湾や鰐浦でよく潜った。アワビやウニの放流後の追跡調査がメインで、船上で成長を調べるために測定をしていた時のことである。
小さな稚ウニの体重を測るのには、チキリという秤を使った。船の揺れに影響されずに済むからで、薬屋か鉄砲屋で見つけてきたのか?と思われるような小さなチキリを使っていた。ウニによって、小さな分銅のサイズを変えるのだが、ある時、ふと船縁に置いた分銅が海中に落ちてしまった。「あれがないと、後、何日も続く作業ができない!」。みんなの考えたことは同じである。

南里さんは、すかさず、ウェイトベルトを落ちた海面辺りに放り投げ、船長に「やまをみて!」と大きな声を出した。「やま」というのは、船の位置を知るために、2つの方位に、それぞれ2つの物標を求め、その重なり方から、2方位の交差点で本船の現在位置を知る方法である。僕も随分と練習させられた。上手な人になると、落としたイカリを引き揚げることができると言われる。

船長に船を固定してもらうように頼んで、彼は僕のウェイトを使って潜る準備をして海に入っていった。5分ほどで浮上し、彼のごつい手の中には小さな分銅が握られていた。みんながどよめいた。

イメージを浮かばせる技:(株)ベントスに勤務している時のこと。幾つもの調査依頼を同時に受ける。現場は、海では漁場、魚礁、港湾、石油備蓄基地、発電所の放水口周り、淡水では、河、河口堰、ダムなどと多様で、調査目的も様々である。南里社長が同行できないものも多く、そういう仕事については相当に神経をピクピクさせていた。仕事の依頼は、彼が直接、聞き、調査に行く前にミーティングをする。そこにその業務を担当しない社員も可能な限り同席するよう求めていた。少人数の会社では、直前になって担当者が変わるのは良くあるからである。

テーブルの横には古いカレンダーが置いてあり、それを一枚、取り出すと、裏側に乱雑に現場の絵を描いていく。これがなかなか上手いのだ。書きながら、「ここが堤防の根っこで、ここが基礎石、その先に捨て石が下っとる。・・・」と箇所の名前や構造を教え、そこで何をするかを書き込んでいき、作業の内容と担当を指示する。それから持っていく道具のチェックリストを作らせていく。最後に、集合と解散の手筈を担当者に考えさせて決めさせる。

余り細かいことを言う人ではなかったが、事前準備にはうるさかった。「イメージができて、忘れ物がないように車に積み込んだら、仕事は半分済んだのと同じやぞ」と言うのが口癖でした。それでも、時々、忘れ物があり、現場で蒼くなったことがありました。「ミスと忘れ物はつきものたい」と言うのも口癖でしたね。

編み出す技:彼は東京水産大学漁業学科の時、トロール船が曳く網と平行して潜りながら網口の開き方を調べていた。水流の抵抗に応じて網口を横に拡げるオッター・ボードという板を改良するための試験研究である。かなり危ない作業だが、彼ならではであろう。

学生生活を支えるために、いろんなアルバイトをしたそうだが、面白いのは、「はとバス」のガイドと蒲鉾工場での話である。はとバスに乗るときは、ひげを剃り、白いシャツに蝶ネクタイのいでたちだったと言うから、さぞ、見物だったろう。写真が残っているが、なかなかのハンサムである。

蒲鉾工場は地下にあり、油が煮えたぎる大鍋やちくわを焼くコンロなどで相当な暑さだったという。そんな中で、激しく働く彼は工場長の覚えもめでたく、アルバイト生の中で主任的な立場とされ、信頼を集めていた。しかし、汗でたちまち、塗れ雑巾のようになる衣類の始末には困ったそうである。そこで、彼は新聞紙を集めて来、それを兜を折る要領で大きなパンツのようなものを作り、裸になって、これを履いた。濡れると、また、新しいものを作って着用したそうだ。

南里さんはこれを「オシメ」と称した。周りで大笑いしていた学生達が、やがては、次々にまねを始め、工場の中を奇妙な、ぶかぶかの紙おむつを付けた学生が走り廻り始めたのである。工場長は、「その格好で外に出るのだけは止めてくれ」と懇願したという。彼の発想は、常人の枠をはみ出ている。

ロープワーク:彼は高校時代からアルバイトでカツオ船に乗り、大学時代は漁業学科で学び、その後は潜水業務にずっと携わっていたので、船のことや船上作業のことはとても詳しかった。僕は彼から六分儀の使い方、3点陵角法に依って円座標を作り、この座標と六分儀を使って船の位置定めを行う作業(ある弦における円周角は一定であるという原理を応用したもの)、山立て等の他、ロープワークも少し習った。僕は大学時代にヨットを少しやっていたものの、スプライスも修得できなかったし、元来、ロープワークが苦手で、手になじんでいるのは最小限のものだけである。使い慣れるより、先に忘れるのである。

魚礁調査に行くと、魚礁の位置を確認するために、何本ものイカリ付きのブイを海に入れる。作業中、ロープが絡まると仕事にならないので、ロープのまとめ方にはうるさかった。左手の親指と小指を立て、残りの指で手の平にロープの先を忍ばせる。そして、親指と小指に8の字型にロープを捲いていく。クリートにロープを掛ける要領である。団子状になったロープを、そろりと指から外し、余ったロープで緩まぬようぎしぎしに固定する。使う時には、指の中に忍ばせてあった一端を引くと、これが不思議にするすると出てくるのである。

一度、山口県長門市で潜水調査をしていた時、遭難者の引き揚げを頼まれたことがある。この時は彼の長男の海児君と二人だった。40mの海底に沈んでいるのが水産試験場のロボットカメラで確認され、モニターに海底に俯せになった遺体が写っていた。幸いに潮流は緩やかで、遺体は静止しており、空気タンクの予備も残っていた。その日は、見島と言うところで潜水していたが、浅場の調査だったし、帰りの船上で2時間以上休んでいたので、窒素も抜け、陽も落ちていないので潜った。

この時、海児君が60mのロープを慎重に団子にしてくれ、15mの予備ロープもベルトにぶら下げてくれた。「よごさん、いいですか、こちらを引き出して、遺体に結ぶんですよ。間違ってこっちを解くと、酷いことになりますよ」と注意してくれた。普段の僕をよく知っているのである。

ロボットカメラのオレンジ色のケーブルが海底にヘビのようにのたくりながら伸びている。100mのケーブルの殆どが出ているそうだ。海水はとても綺麗なので、上から良く見通せる。なるべく深く潜らないように中層を泳ぎながら、ケーブルを辿った。やがて、遺体にたどり着き、その横の海底で、慎重にロープを取り出し、海児君の注意通りに端を引っぱり出した。遭難したのは前日で、遺体は綺麗だった。俯せの遺体を持ち上げると、すっと浮いた。何重にも巻き付けて、固定し、顔を見ないようにして、ゆっくり浮上した。ロープは何の抵抗もなく、するすると出ていき、「さすが息子」と思った。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その3.カンジの進取性 03/14/04

水中ビデオ:水中ビデオをいつ使い始めたか?僕が初めて会った昭和50年(1975) には既に白黒を使っていた。西海区水研からの委託業務で、水深 80〜90 m の魚礁の調査では、ステンレス製のはしごに、ハウジングに入れた水中ビデオと一眼レフを段違いに取り付け、吊り下げワイヤー、ビデオケーブル、一眼レフのリモートケーブルを伸ばして撮影していた。水中での抵抗は凄まじいもので、南里さんは分厚い上着で肩を保護し、船の艫でワイヤーを肩に掛け、顔を真っ赤にして操作していたという。この現場には僕はご一緒してなく、水研の方からお話を聞いたことがある。

カラーのカメラにしたのは、前原市に移ってからだったから、昭和55年位ではないだろうか?OBISCO社の製品で、今なら目を見張るくらいの値段だったと想像できる。ビデオケーブルには沈んで絡まないように浮きを付け、フルフェイスマスクを被って、船上と通話できるようにしていた。フルフェイスマスクでなくとも、インタフォンを改良したマイクを作り、それを収納したパックをフードの下、首の横辺りに入れ、ある程度の本船への通話が可能だった。また、その場合は米国製の水中スピーカーも購入して、船の舷側からスピーカーを吊り下げて、モニターを見る係りの指示を仰いでいた。

ビデオデッキはSONYのβ方式で、かなりの大きさがあった。これをジュラルミンのスーツケースに入れて持ち運び、塩害を防ぐためにレギュレーターホースが装着できる穴を開け、そこからボンベの乾燥した圧縮空気を入れて換気していた。電源は、ガソリン式の発電機で、途中で電圧低下が起こらないように、スライダックスという電圧安定器をかませていた。ビデオの編集は、自分でSONYのラボに通い、そこで指導を受けながらマスターしていた。

彼には2人の息子さんがおり、長男は海児君、次男は洋児君で、合わせて海洋となる。呼ぶときは、カイズ、ヨウズとなまった。その後、お二人が入社してからは、ビデオはもっぱらデジタルの時代となり、最近は、息子さん達がビデオカメラを扱い、「おれは今のビデオはわからん」と触ろうとはしなかった。パソコンもゲーム以外には触ろうとしなかった。


南里さんの仕事道具。告別式会場にて

ワープロ:これを取り入れたのも相当に早く、昭和50年代の初めではなかったろうか?RICOHの機種で、レンタルシステムだったが相当に高価なものだった。それまでは奥さんの都志子(呼ぶときはトスコ)さんが和文タイプで報告書を作成していたので締め切り前は大変だったという。その後、社員が増え始めると、若い人に任せていた。

水箱:これは面白い装置だった。低視界下での附着動物や海底の底質撮影には抜群の威力を示した。アクリル製のケースに接写装置を付けたニコノスとストロボを装着し、ケースの中に真水を入れて視界を得る装置である。簡単な原理だが、良くできており、「これは随分活躍してくれたなあ」としみじみ話すのを聞いたことがある。

藻場造成:南里さんの進取性は、道具だけでなく、新しい事業にも伺うことができる。これは現在も継続中の事業であるから、詳しくは書かないが、生物を栽培するなどとは大学時代には全く考えなかった人が、一から勉強して、事業にまで発展させたのだから、自分のような生物研究者は完全に負けである。南里さんは「俺なんか、水の中で息ができるだけ」なんて真顔で話すことが多く、「あれができます、これもできます」と謳うのを嫌ったし、社員にもその旨を徹底していた。彼の人柄がよく出ていると思う。

機械に強く、新しい機種を導入するのに寸分のためらいを見せなかった。船に乗る前には、港でシコを踏んでいた。丸坊主、40台の頃は体重90kg、光り輝く肌の体だった。服装はランニングに短パン、ゴム草履。そんな外観だったが、頭の中は極めてシャープだった。

実は、彼はそんなにオール・マイティーの人ではなかったのだが、よく準備をし、よく相談をし、そして良い結果を出す人だった。それはまた、後に。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その4.カンジ辞典 03/16/04

彼の表現は聞いて驚くようなことが多く、慣れていない人には外国語か楽屋言葉のように思えたと思う。

例を出そう

もじゃくる:紙を丸めること。「もじゃくって投げろ!」
*「投げろ」は捨てろ、あるいは放っておくの意。
セビロ:2つの意味があり、潜水業務の時はウェットスーツが背広で、役所での打ち合わせなどと言う場合はネクタイを締めた姿を背広と言っていた。調査の前、「セビロ積んだかー?」と言われると、ウン?という時もあったなあ。


初めてのドライスーツを来てご機嫌の南里さん
「おめえはカブリで、寒かったろう、済まん」と言っていた。
1978年頃(北九州市脇田漁港前)

以下の単語は、僕が入社した後に知ったもので、割りと最近に南里さんがこしらえたものだ。

キンカザン
これはややこしい。業務で船に積み込む道具が多い。また、濡れても良いものと困るものとがある。南里さんはフィルムの予備、白いフェルトペン、タバコとライター、車の鍵、予備のOリング、チリ紙、歯ブラシとフィルムケースに入れた塩のセット(風呂とひげ剃りは嫌いだったが、塩で歯を良く磨いた。虫歯の痛みに閉口したのだろう)等をまとめて持っていた。これを最初に入れたのが、金華山のお社で売っている布袋だった。しかし、濡れるので、蓋がきっちり閉まるプラスティック製の小箱に変えた。そして、その箱を、また「キンカザン」と呼んでいた。

僕は入社して初めてその呼び名を聞いた時、一体なんだろうと訝った。さっぱり、わからん。いまでは、何代も続いた箱に、「金華山3」とか書いてある。また、会社の実印も、別の金華山の小振りで、派手な黄色の袋に入れていた。役所へ行く時に持たされ、それを役所の人の前で取り出すと、大抵、変な顔をされるか、笑われるので嫌いだった。「これですか?別のものに入れ替えて持って行っても良いですか?」と聞くと、「うんにゃ、ダメ」とおかしそうに言い、「おめえでも好かんのか?」などと失礼なことを口にしていた。

プチプチ:ショック軽減の包装材

シュッシュッ:スプレイ式の糊のこと。動詞にも使う。
成果品をまとめ、手渡すときに、「プチプチで包んで、宛名書きをシュッシュッしてくれ」と指示していた。

グルッと:現場で水洗いした潜水道具を色んな所に干して水切りをする。あとで車に積み込む時に忘れ物をすることが多い。入社して最初の現場は、長崎県の生月で、ヤリイカの産卵調査だった。全て終了して車に乗る前、亮君に「よごくんにグルッとを教えておけ」と言った。亮君は、「最後に歩き回った処を見渡して忘れ物がないか調べるのが、グルッとです」と教えてくれた。

ペトルポット:最近のカタカナ語に弱かった。しかし、英語やスペイン語はかなり知っていた。また、カタカナ語を面白く使うことがあった。

海児君が中学生の時だったろう。地の島という処へ行った。南里さんが海児君を連れてきていた。 春休みの頃だろう。
船上作業の手伝いとして来たらしい。一泊し、帰りの船の中で、海児君から面白い話を聞いた。

彼は騙されて来たというのだ。「白いお船に乗って、綺麗なアイランドへ行く。シーサイドホテルがあるから、そこに部屋を取っている。夜は素敵なディナーを食べる。お前は舟の上で釣りでもしておけ」と言われ、「半信半疑で付いてきた」と口を尖らせながら、「船は錆びたボロ船やし、民宿やないか。おかずは魚ばっかりやし、舟の上ではロープの揚げ下げでマメが出来た」と憤懣やるかたなしと言った体である。聞いていた南里さんは、「ボロ船とか言うな。アンティックな船と言え。騙される方が悪い」と笑わせた。


南里海児君。北九州市洞海湾で。右端の手は南里さん。
1996年頃の写真(撮影:余吾 豊)

話しかけ

そんときゃーそんとき:これは彼の柔軟性を良く表しており、僕にはよく分かったが、若い社員には困る表現だったようだ。ある時、天気が変わりやすく、業務が重なって、調査計画が立てられずにいた。宿舎を予約したいのだが、都会でない宿舎で、ドタキャンをすると、次の業務の際に差し障りが生じる。「どうしようか?」と話すと、「そんときゃーそんとき」と言う。そして、予約無しで山陰へ行った。南里さんと二人だった。寂れた温泉町は夜が早く、玄関を閉めている旅館が多い。明かりのついている旅館の前で車を止め、僕のいでたちをざっと見て、「おめえが頼んでこい。俺よりましな格好だから」と言う。

「やだなあ」と思ったが、仕方がない。仲居さんが出てきて、じろっと見る。希望を言うと、奥に引っ込んで、女将さんが出てくる。今度は頭のてっぺんからつま先までみっちりと観察された。視線は丹念に2度も上下した。「晩飯は用意できませんよ」ということで泊めてもらえた。フーテンのトラさんになったような気分だった。

奥歯噛みしめて:業務の上では、泣きたくなるような元請けの意向を聞くことが多い。彼は「そんなのはよくあること」と笑い、「奥歯噛みしめて」と話していた。もっとも、一番、泣きたかったのは代表取締役の彼であろう。

むつける:九州の人間にとってはなじみにくい言葉で、連発され困った。すねると言うことだと思うが、ちょっとニュアンスを掴めないままだった。「また、また、またー、すぐ、むつける!」
 

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その5.カンジの世界一周 03/19/04

僕は27才の時に自動車免許を取ったので、それまでは助手席で南里さんの話を聞いていた。遠距離を移動する業務が多く、その間に彼から聞いた話はとても書き尽くせない。彼はとても良くしゃべった。運転中はしゃべりずくめだった。その話には、大きく分けて、4つのテーマがあったように思う。

1.東京での学生時代
2.卒業後の仕事
3.子供の頃の生活
4.馬

僕にはその全てが途方もなく面白かった。

その中でも特に面白かったのが、2.に入る「世界一周」。彼が結婚する前である。どういう経緯だったかは知らないのだが、昭和43年の8月から12月までの契約で SERVICIO NAVAL SUBMARINO. S. L. の社員として採用され、スペインへ行く。それも、貨物船の乗組員となって働きながらスエズ経由で現地へ向かう。結婚が決まっていたから、その資金作りだったのか?僕には分からない。泊地でタンカーの船底を掃除する仕事である。ラスパラマスに大きな泊地があり、その近くに下宿して、毎日、スクーバを使って底を掃除していたという。当初はスペイン語がちんぷんかんぷんだったらしい。当然であろう。

タンカーは巨大で、油を積んでいない状態だから喫水が浅い。明るい海の中でも、見渡す限り、鋼板が拡がった単調な世界である。空気が長く持つため、長居をしていると、神経が麻痺し、方向が分からなくなると言う。むやみに出口方向を探していると、幾ら浅くとも、氷の下に閉じこめられたシャチと同じ運命を辿る。

彼は鋼板の継ぎ目をジグザクに辿ったと言った。神経が朦朧となった時には賢明な方法ですね。頭を使わずに必ず船底の外に出ることができる。実は、これと似た話を別に聞いた。彼がダムで潜水業務をしていたときのことである。ダムの底には、様々な水路があるそうだ。九州の寺内ダムか江川ダムの話だったと思う。その水路で、陸上の入り口から階段を降り、水平に走っているトンネルを歩き(この中は全て水が満たされている)、途中にある計器の交換作業をするという仕事だった。作業そのものは単純だったが、陸上でも水の中であれば、減圧症も、空気不足も海中と同じように起こるし、水が淀んでいて視界が効かない為、一層、恐怖心を煽る面もある。それから、水温が低いのも悪条件の一つである。

彼は階段を降りたところに、レギュレーターを付けた予備ボンベを置いておき、トンネルを歩いて、水中ライトで足下を照らしながら計器の設置場所を探した。それは設計図通りの処にあり、しゃがみ込んで、作業を始めた。水深は40mほどで、残圧にはあまり余裕が無い。作業を終えて、交換した計器と工具とを袋に入れ、立ち上がった。その瞬間、彼は戦慄を覚えたそうだ。帰る方向が分からなくなったのだ。方向はトンネルだから2方向しかない。しかし、誤った方へ歩き出すと、延々と何キロも続くトンネルである。その先は袋小路である。

階段を降り、水平となったトンネルを歩いた距離は大したものではなかった。確信はなかったが、およそ、数十歩だったろうと思った。残圧と予備ボンベを考えると、冷静に行動しさえすれば大丈夫である。恐ろしいのは自分のパニックだったという。彼は少し考え、それから、計器の処にライトを置き、そこから、トンネルの壁に手を当てながら、先ず、こちらかなと言う方向へ20歩だけ進んだそうだ。そこには階段がなかったので、ライトまで戻り、そこから、別方向へ20歩、次は同様に30歩、そうやって往復を繰り返し、階段にたどり着いた。そこで、新しいボンベの空気をゆっくり、しみじみと吸ったという。

余談が長くなりました。

明日は、スペインから大西洋へ。

03/20/04

ラスパラマスは、スペインの領土ですが、アフリカのモロッコの西に浮かぶカナリヤ諸島のグラン・カナリヤ島にある港町です。彼は大食漢だったけれど、スペイン人の食事の量にはたまげたそうです。「俺より喰うぞ」なんて言ってました。契約期間が残り少なくなり、結婚式の日取りも決まり(留守中に奥さんと彼の友人が進めたそうです)、彼は帰国準備を始めました。彼はケチではありませんが、無駄使いを嫌いました。残した私物は本だけでした。その点、収集癖があり、買い物好きな僕は正反対で、「おめえも好きやのー」とよく、からかわれたものです。

帰りも貨物船の乗組員となり、マゼラン海峡、サンフランシスコ経由の船に乗船する計画でした。稼いだお金は殆どを送金し、乗船日までの1週間をカナリヤ諸島の無人島で過ごしたそうです。海に潜ると、魚は少なかったそうですが、タコがやたらに多く、タコばかり食っていたそうです。共食いですね。

タコと言えば、彼はミズダコに襲われている。一緒に潜っていたケンちゃんから聞いた話を紹介しましょう。

隠岐の島前、水深30m程のところで魚礁調査をしていたときのことやった。1.5 m 角のコンクリートの上に、大きなミズダコが寝そべっていたんよ。大きかったねえ。南里さんが僕に写真を撮るように手で合図をした。タコと並んで、記念撮影と思ったわけたい。きっと、そう来ると思ってたけどね。カメラを構えると、タコが、ぐっーと立ち上がって、あっちゅう間に、頭が三角になった。灯台みたいやったね。

手で、「やばい!」と合図しようとしたけど、タコが足を伸ばして抱きついた。傘を拡げるみたいやった。太い足を絡ませてマスクやレギュレーターを引き剥がそうとしよった。僕は、もう、えずうして(怖くて)近寄れんかった。持ってたのはカメラだけやったしね。

そしたら、南里さんは逆にタコを抱きしめて、魚礁をフィンで蹴って、浮上し始めたんよ。もーびっくりしたけど、僕も付いて上がった。手はだせんかったけどね。すると、タコが足をほどきだした。そして、離れて、ビュッ泳いで逃げていった。船に戻って、南里さんを見ると、さすがにハアハアいよった。スーツの胸の処が破れて血が出てた。噛まれたんよ。

その傷はずっと残っていたが、その後もタコを見つけると、必ず、捕まえていた。ある時など、岩穴の中のタコが、ちぎれてボロボロになった。南里さんは、あーあとあきらめ、それから合掌した。笑ったなあ。僕もタコを見つけると大抵捕まえていた。ある時、タコが穴の中に居たので、カメラを置いて、アワビ起こしという鉄鈎を取り出した。そうすると、別の方から足が出てきた。もう1匹居たのだ。その足は、石を引っ着け、自分の方へ引き寄せた。体を隠そうとしていたのである。見つかっていなかったのに、タコだね。その日は、2匹の収穫となった。

また、脱線。ここで、当て舵をかませよう・・

貨物船は大西洋を南下し、フォークランド諸島に寄港しました。そこに、商社の支店があり、届け物をする役が南里さんに廻りました。本社からの書類や日本食の材料などを届けるのです。支店と言っても、それは粗末な小屋で、駐在員が一人。とても喜んで彼を離そうとはせず、一気にしゃべり続けたそうです。彼が届け物の他に、乗組員が廻し読みしてボロボロになった雑誌を渡すと、押し頂くようにして受け取ったとか。

さて、マゼラン海峡に近づくと、風が強まり、気温は一気に低下。「氷結準備(氷海準備だったかな?)!甲板員はBデッキに集合!」とマイクががなり立てます。海水がマストや構造物で氷結すると、相当な重量に嵩み、船がトップヘビーになるために、様々な準備が必要となるそうです。名にしおうマゼラン海峡。酷いものだったと言ってました。特に、荒天下の氷の除去作業は危険だったと言っていました。この辺り、他にも色んな話を聞いているはずですが、思い出せません。

その後、東太平洋を北上。サンフランシスコに入港。貨物の積み卸しをしている間に、海員ストが始まったそうです。日本では結婚式の準備が、新郎抜きで進行しており、既に日程が固まってしまっています。彼は電報を打ったそうです。なんと書いたのか知りたいところです。今度、奥さんに聞いてみよう。日本では友人達が集まって対策会議。メールはありません。「南里は十分な金を持っていないそうだ。航空券を向こうに送るしかないぞ」と言うことで、皆が財布をはたいて、チケットを送ったそうです。その時、南里さんは、ポケットに残っていたお金で、ディズニーランドで遊んでいましたとさ。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その6.フィジカルなカンジ 03/20/04

南里さんはスポーツ万能だったと自分で高言していた。僕は知らない。確かに相撲や柔道は強かったろう。しかし、野球は4番でピッチャー、サッカーはセンター・フォワード(昔はこういうポジション名があった)、水上スキーはお手のもので北上川の河口で鳴らしたもんだ。スキーなんぞは小さい時から自転車代わりだったなどと言う話が続くと、北国育ちだからスキーはまあともかくとして、僕だけでなく、息子さん達も「また、始まったか・・」という顔をしていた。

彼は福岡県の消防士のスクーバ訓練を担当していた。軍隊調の訓練、挨拶、号令などが彼の肌に合うらしく、その合宿から戻ると、しばらくは、その雰囲気が抜けなくて、海児君、洋児君は「もうすぐ、気合いが入いりすぎて帰ってくるばい。いややねえー」と話し合っていたという。一度、物を届けに、合宿訓練が行われている消防学校へ行ったが、その時の南里さんは確かに、普段よりも数段と太い針金が背中に入っているような雰囲気だった。ちっとも馬鹿を言わず、低い声で言葉少なに話すので、最初は具合が悪いのだろうかと思った。帰る車のなかで、「ああ、そうだったか・・」と思った。

訓練の最終日は海での潜水実習があり、その後、砂浜でバーベキューをしてビールで乾杯、訓練生達が南里さんを抱えて海に投げ込むのが習わしとなっていた。それに答礼し、彼は砂浜で空中回転を披露していたが、ある年に、頭から着地。酷いむち打ちになっていた。

業務では重い荷物の積み降ろしが多い。彼は、中腰で重い物を持とうとする僕たちを叱った。「腰を痛めるぞ。蹲踞して持て」。蹲踞(そんきょ)って知ってます?相撲や剣道の時の、足を折って、腰を下げた姿勢です。そのお陰で、僕はまだ、腰を痛めたことがない。しかし、南里さんは少なくとも2度、ぎっくり腰を経験している。

ある朝、会うと、なんか精彩に欠けている。「腰をやった。運転頼む」というのである。つい、うっかりし、徐行せずに段差を越すと、隣で「ギャッ」と言う。海に入ってしまうと、「らくちん、らくちん」と笑顔だったが、船に上がる時が大変だった。ある時は、定置網の船での調査だったので、小さなデリック・クレーンがあり、見かねた漁師さんがブランコのような物を作ってくれた。これで水面から吊り上げられて子供のようにはしゃぎ、とても、ご満悦の様子だった。

他の面にみせた強さから考えると、肉体的な痛みには信じられないくらい弱い人だった。ハオコゼに指を刺されると、「痛い、痛い。何でこんなに痛いんか、余吾くん」等と、顔をしかめていた。「空き缶に長い魚が入ってたぞ」と差し出すので、「ニジギンポでしょう。噛みつきますよ」と言うと、「何の、このチビスケが」と言って、缶を逆さにし、たちまちの内に噛みつかれていた。その時も「痛い、痛い」を連発し、「なんで、もっと早く言ってくれんのか」と恨めしそうだった。

注射にも情けないくらい弱かった。社員全員が検診を受ける時、若い人は胃検診が無いのだが、南里さんご夫婦と僕は対象だった。その前に、注射があり、奥さんが横にいるのに泣くような顔をしていた。これを見るのがとっても楽しかったですねえ。大きな注射器を看護婦さんが持ってきたのを見て、診察途中で逃げ帰ったこともあると奥さんが証言している。一方で、人が注射されるのは平気だったようだ。ある怪我で入院している時、看護婦さんがしばしば、「なんりさん、また、お願いします」とやってくる。注射を避けようと泣き叫び、暴れ回る子供を後から、ぐっと抱きしめるのが彼の役である。

虫歯、ものもらい等を患い、抜歯、切開の治療を受けた後は、青菜に塩のように元気をなくし、怒りっぽくなっていたのも思い出す。

亡くなる前の入院生活で、根治には効果のない点滴の連続には、さぞ辛い思いをしたのだろうと、可哀想になります。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その7.カンジさんの食事 03/20/04

喰うことにかけては、真剣そのものだった。食い物と格闘していると言った感じだったですね。どんなものでも美味しそうに食べ、残すことは絶対にありませんでした。食い放題の焼き肉屋に行った時、息子さん達が面白がって、色んなものを彼の前に並べました。彼は、最後は苦しそうでしたが、残らず、食べ終わりました。人が残そうとすると、「まさか、残さないよな?」とギロリと
睨むので、そうならないような食べ物の注ぎ方が大事でした。

社では、外にでていない全員が一緒に昼食を食べていました。南里さん夫婦は事務所の二階に住んでおり、奥さんが、丼にご飯をよそい、その上におかずを載せて持って降りてきます。彼は、奥さんがお茶の用意をする間中、2つの丼をジィーと見つめ、どちらを取るか考えます。「君だったら、こっちを取る?」なんて聞いたりもしました。

僕は、今でも、こういう時の南里さんは何処まで本当の姿を出していたのか、わかりません。時々、見られていることを意識した行動を取るからです。それは誰にでもあることでしょうが、気取ったり、格好つけで無理をしたりすることを忌み嫌う彼だからこそ、一層なぜ、こういうことを人に見せるのだろうと思うことがあったのです。

ある時、良くお世話になっていた平戸の民宿に友だちの家族と遊びに行きました。夜、彼と二人で酒を飲んでいると、玄関が開いて、ぬっと南里さんが入ってきました。「なんで、おめえがいるのか?」と言います。それはこっちのせりふだと思いましたね。「アワビの夜間調査だったよ。そこにいるのは三郎丸君か?」。三郎丸君は、前にも出てきた南里さんファンの青白き院生です。

僕らの横に、よっこらしょと腰を落ち着け、「さぶろうくん、久しぶりやなあ。あー、腹が減った。飯あるか?」と言います。「飯なら、ジャーに残っていますよ。刺身も沢山残ってるし、きんぴらもある」というと、「刺身はおめえらの酒のつまみやろ。俺は酒はいらん。きんぴらをくれ」と言って、やおら、茶碗にご飯をよそい、きんぴらを上に載せて、バリバリ食べ始めました。空になると、ジャーを開け、ちょっと考えていました。ほんの1,2秒です。すると、茶碗をジャーの中へ突っ込み、茶碗でご飯をよそいました。

これも、上に書いた彼の不思議な行動なのです。意識した行動なのだと思います。彼は、若い時に、さんざん、いろんなことをやってきましたが、大人になってからは、特に、僕や若い社員の前では、非常識な行動をたしなめる側に立っており、帽子が好きな僕など、「部屋に入ったら帽子を取れや!」と叱られたものです。その彼が、どうして、そんなことをわざわざにしてみせるのか、
理解できないことが残っています。受けを狙うと言うだけではないように思えるのです。

長浜ラーメンと言うものがあります。彼が福岡市に来たのは、日本アクアラング福岡支社への転勤で、支社の近くに24時間営業の「元祖・長浜ラーメン」があります。今もあり、僕は近くを通ると立ち寄ります。ちょっと癖があるのですが、「慣れるとなんとか・・」の類ですね。今から30年前は一杯\200でした。替え玉というシステム?があり、麺だけを¥50で追加してくれます。替え玉を2回すると、3人前の麺を喰ったことになりますが、それでも¥\300でした。今は最初の一杯が\400になっています。替え玉を繰り返していると、段々に汁が薄くなるので、濃い出汁が置いてあります。これはただです。紅生姜を加えるので、最後には汁が真っ赤になります。あー、喰いたくなった。

このお店は、ラーメンしかありません。なんとかラーメンなどと言うメニューはありません。ある時、若いカップルが入ってきて、僕の前に座りました。どうも、雑誌を見て来た雰囲気です。壁のメニュウーを見ていましたが、そこには、ラーメン、替え玉、替え肉、酒、焼酎、ビールとしか書いていません。困った様子で、「じゃあ、ラーメン2杯」と男が言うと、その時には、カップルの前に湯気の立ったラーメンが2杯、置かれておりました。吹き出しそうになるのを必至にこらえました。

メニュウは単純ですが、面白いシステムがあるのです。麺の茹で加減で、黙って席に座ると、普通の茹で加減のラーメンが出てきます。待ち時間は1分くらいでしょう。堅めの加減が好きであれば、「カタ」と言います。30秒で来ます。過激なのは「ベタナマ」で、これは15秒くらい。歯と胃の丈夫な人でないと無理ですね。逆に「ヤワ」というステージもあります。

これがなかなか口に出して言えないのです。南里さんと一緒の時は、彼が入口を開けながら、「カタ、2つ」と注文するのでスムーズなのでした。一度、 一人で入った時、この注文をするのが気恥ずかしく、席について、お茶を汲んでから、「カタでお願いします」とやったら、お兄さんがテーブルにラーメンを置いてにっこりし、「カタの時は入口でそういいんしゃい。間にあわんばい」と窘められました。今は、それがマスターでき、入口を開け、店員と目が合うと、指を一本立て、「カタ、イチ」とやります。
「ハイ。御新規、カタ、一丁」。
南里さんのお陰です。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その8.カンジさんの好きなこと 03/22/04

彼が好きなものは、なんと言っても、競馬、読書、人とのおしゃべりである。

僕は競馬のことを殆ど知らなかったし、馬券を買ったのは数度である。しかし、馬のこと、競馬のことは彼から随分と聞かされた。馬の名前は思い出せないが、競走馬の血筋のことを良く知っており、「この馬は、お父様も立派だったが、お母様も、それはまた、ご立派な方で、速いのは当然」なんて、話していた。現場を移動する途中では、助手席の僕に「青い新聞を売っている店があったら、止めて買うから、しっかり見ておけ」という。あるスポーツ新聞でないと、彼は嫌なのだ。新聞を買うと、声を出して、色んな記事を読まされた。運転しながら、「ふん、ふん」と聞いている。「ほれ、その右下に、”芝時計”という囲み記事があるだろ。そこを読んでくれ」、「次は厩舎便りを頼む」等。

ある時から、電話で馬券が買えるようになった。現場から戻るのが日曜になった場合は、朝から、目の色が変わっている。公衆電話で車を止め、新聞を持ってボックスに入る。直ぐに慌てて出てきた。「暗証番号を忘れた。お目得、知っているか?」知るわきゃないだろ。その日は馬券が買えず、ご機嫌斜めだった。彼は東京に行くと、羽田から必ず、モノレールを利用した。僕が京急が速くて良いよ」というと、「俺と何年付き合っている?京急は大井に止まるか?」と言われた。

南里さんを良く知っている人は、日曜の3時から4時まで電話を掛けない。テレビの前にいるからだ。テレビが見れない時は短波ラジオを必ず携行していた。ある時、うっかり電話をしたら、「おめえはまだ掴めてないのお」と窘められた。結婚式が日曜となっても、披露宴に来てもらおうという人は、午前中か、夕方に組まないと来てもらえない。

北九州に住んでいた頃、海児君と洋児君は、日曜になると、「お馬を見に行こう」と小倉競馬場に連れていってもらっていたそうだ。

いつも文庫本を持っており、少しでも時間があると読んでいた。津本 陽や池波正太郎の時代物、新田次郎、五味川純平や豊田穣の戦記を特に好んでいた。病院へのお見舞いに花を持っていっても、絶対に喜ぶ人ではないから、僕はこれはと思う本を数冊持っていった。ベッドに座って「これは良いな、読みたかったよ。これは読んだ、これは多分読まないから置いて行かなくて良い」と選び、次ぎに行くと、読んだ全てに、短い感想を話してくれた。こういう配慮は細やかだったなあ。

是非、読んでもらいたかったのが、帚木蓬生の「逃亡」だったが、渡すのがかなり遅くなった。いよいよ、悪くなって自宅に戻ったとき、「厚い本だったので、重たくて読めなかったのよ」と奥さんから聞いた。それほど、筋力が弱っていたのだ。 南里さんは、最初の入院で黄疸が引き、一度退院した。その夜、好きなものを腹一杯食べたようで、ご機嫌な電話を掛けてきた。「イワシはやっぱり旨いのお。でも、最近のはちょっと小さくなったんやないか。よごくん、理由が分かるか?」なんて言っていた。

他の会社の人がいる前では、「社長」と呼んでいた。僕は車で通勤することが多かったが、地下鉄で行った日は、仕事が終わると、「今日は車じゃないな。いっぺえ、やるか」と言って、ウィスキーの角瓶を持って降りてきた、干物を焙ったり、柿ピィーを摘みながら飲んだ。うっかり、「でもねえ、社長」とやると、「二人の時に社長と呼ぶな」と睨まれた。良くしゃべって、良く笑った。楽しい酒で、乱れても、大声を出すことはしなかった。

他に、映画で好きだったのは、「トムとジェリー」、テレビでは「水戸黄門」がお気に入りだった。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その9.カンジさんの嫌いなこと 03/24/04

アルバイトで南里さんと珍道中を繰り返していた頃、フーカー潜水器をよく使っていた。船の上にガソリン式の低圧コンプレッサーを置いて、そこから長いホースを取り、その先にレギュレーター・ホースを付けたものである。

福岡県水産試験場からの業務委託で、筑前海沿岸の藻場調査を続けていた。糸島半島の芥屋(ケヤ)だったと思う。海底で海藻の坪刈りをしていた時、突然、空気が来なくなった。見ると、レギュレーター・ホースとコンプレッサー・ホースのつなぎ目が外れ、そこから空気が吹き出している。南里さんはどこかと見ても、海藻が茂って分からない。つなぎ直そうとしたが、空気が吹き出しているので、無理だった。水深は7−8mだったから、浮上して船に揚がった。僕は、腹を立てていた。「こんなボロな機械で事故にあったらたまらんわい」とプンプンしていた。

直ぐに南里さんが上がってきた。「どうした?」と聞くので、「ホースが外れました。こんなん嫌です!」。南里さんは、仕方ないなあと言うような顔をし、よっこらしょと舟に揚がると、こう言った。

「おめえのホースが外れたんだぞ。そこから空気が全部、逃げるやろうが。俺の処にも空気はこなくなる。自分の点検が悪いから、そうなる」。別に睨みもせず、静かにそう言った。

僕はとても恥ずかしかった。彼は考えようとしない馬鹿が嫌いである。

約30年のお付き合いで、怒鳴られたことは一度もないが、怒鳴られたくらいショックだった。

以下、彼の嫌いなことを羅列する。

ハイスピード運転。スピーチ。人混みの中を歩く。買い物をする。ネクタイを結ぶ。ひげを剃る。風呂に入る。パンを食べる(吐きそうになると言っていた)。浪費をする。写真を撮られる(殆ど、手や持っているもので顔を隠すか、睨み付ける。社員旅行では必ずと言って良いほど、双眼鏡を構えて隠していた)。高いところ。ヘビ。プルトップ。

車を飛ばすのを嫌った。若い社員は皆、怒られている。「ミスと忘れ物はつきものたい」と言っても、交通事故は事故を仕事上のミスとは見なさなかった。海児、洋児、亮君は、いずまいを正しているかな?

ある時、僕の都合が合わなかったので、青白き院生のM君に代わってもらった。平戸での仕事だった。ところが、M君は、1週間前に、中国自動車道で、30分の間に、2度続けて、30kmオーバーで捕まるという大失態をやらかし、免許取消と相成った。助手席のM君に、「運転を代わってくれ」と言うと、「済みません、免許を取り消されました」と答えた。

それから、南里さんの説教が延々と始まったそうだ。「人間じゃない」、「走る凶器」、「人を殺したら、どうするんだ」。M君は、じっと下を向き、ハイハイと頷くだけで、針の筵の状態だった。南里さんは、彼が、あまりに殊勝なので面白がっていたのだろう。さらに、声をあらげて、調子に乗って説教を続けた。

その時、前方に警官が飛び出し、両手を拡げ、笛を鳴らして静止させた。15 km のスピード違反だった。M君の頬に血色が戻り、その後、南里さんが浴びせた言葉をそっくりそのままお返ししたという。出来過ぎているようだが、本当の話である。

結婚式のスピーチは苦手で、順番が来るまでに速いピッチで酔っていた。間際まで「すまん、余吾君、代わってくれんか?」等と情けなさそうな声を出していた。

ある時、頭が痛いと言って大学病院で診察を受けた。長期に渡る潜水の影響を心配したそうだ。医師が、「ものを食べて吐くことはありますか?」と言うのに、「いえ、口に入れたものは絶対に戻しません」と答えたらしい。医師は、彼の顔をじっと見つめ、「分かるような気がします」と言ったという。これは今、思い出してもにっこりしてしまう。パンでも吐かない人だからね。

都志子さんの母親が入院していた時、僕はとんでもないことを彼に頼まれた。甥御さんに成り代わって、お見舞いに行けと言うのだ。「年齢は同じくらいやし、ずっと会って居ないから、絶対にわからん」と言う。「いくらなんでも、それは嫌です。まして、ずっと前に一度、お母さんには会って居るんだから」と断ったが、「頼むから」と言うきり、そっぽを向いた。こうなると、もう、僕の負けである。僕は、病室のドアを開け、名乗った。彼女は信じていたようだ。1分くらいで、そうそうに病室を出た。

彼は人に頼まれると、無理なことでも直ぐには断らないで、なんとかしようとする。結局は受けるのに、一度断った僕の態度は、彼にとり、お気に召さなかったのだなあと思う。

福岡市の小呂島へ行った時のこと、最後の日に島を縦断した。南里隊長が先頭を歩き、僕と甥御さんと僕が続いた。山道で蜘蛛の巣に引っかかると、「突然、大グモが隊長を襲った!」などとテレビ番組のナレーターのまねをしていた。大きなアオダイショウが木を登っているのに、たじろいでいた。僕が尻尾を掴んで引っ張っていると、「よごくん、やめろ、やめろ」と真顔になっていた。

缶コーヒーのプルトップに難渋していた。爪を噛むので、開けることが出来ないのだ。

「大好な人:漢(おとこ)、寛治」
その10.南里さんと泳いだ海 03/25/04

福岡県宗像郡筑前大島

南里さんと最初に潜った場所である。1975 年の夏で、南里さん、陶山さん、ケンちゃん、ジムという外人(福屋のカラシメンタイのCMに出ている)と一緒だった。まだ、20本位しかSCUBAの経験が無く、浅いところだけだった。午前は30mの魚礁だったが、少し緊張した。海に入る前、舟の上で、南里さんが作業要領を話した。

「1.5mの角型コンクリート礁が200個くらい入っている。その上に廃車になった車やバイクが乗っているやろう。ケンちゃん、このハンドルが使えそうとかいって、外したりしたらダメ」等と冗談を言っていた。

午後は、60m の魚礁だった。漁港で弁当を食べていた。南里さんは、「おめえは止めとけ。どうせ、何も見えんし、5分で上がるから」と言った。僕も頷いた。すると、側で聞いていた陶山さんが、「なんね、よごくんは潜らんとね。あそこの電信柱を見てみんしゃい。ここから50m 位やろうもん。60m といたって、ほんのあの先やないね」という。南里さんはどうするかと聞く。じゃあ、行ってみようかなということになり、南里さんにくっついて、潜った。何も見えなかった。


長崎県上五島青方

洋上石油備蓄基地を作る現場でのアセスの業務だった。作業が1日早く終わり、最後の日は遊びで潜った。祝言島と言うところだ。僕はベラを見るために磯場にいたが、南里さんは砂地の方に離れていった。初めてイザリウオを見て、感動した場所だ。

舟に戻ってから、面白い話を聞いた。

「砂地の上に、大きなイラが寝てたよ。体を横にしていた。目がクルクル動いて、俺の方を見よった。ソーと近づいて、アワビ起こしで、叩こうとしたら、パッと起きて、遠くへ泳いでいった。透明度が良いからよう見える。で、また、戻ってきて、パタンと寝た。変な奴たい。今度こそ、と思ったけど、また、逃げられた。でも、また戻ってくきて同じように廻るったい。その時に片方の目が真っ白になっているのが見えた。じっとする時は、見えない方を下にして、ヒラメみたいに見とるんやろう。逃げるときは、見えん方を内側にしながら泳ぐけん、同じ方向に廻るんやなあ。」

僕は、感心しながら聞いていた。彼は立派なウォッチャーなのだ。

長崎県東松浦郡生月島

定置網の修理業務で南里さんと二人だった。定置網を拡げ、楕円形の形を保つために、大きなブイを両端に繋ぎ、このブイをワイヤーで海底に沈めたコンクリートの方塊にごついシャックルで固定している。このワイヤーの交換作業だった。水深は40m 、南里さんと交代で、1日3回、15分、8分、8分の限界海底滞留時間を守り、十分な休憩を挟んで作業を続けた。 南里さんが最初に潜り、方塊のシャックルピンを抜き、シャックルを緩めて、ワイヤーを外す。シャックルを持って浮上。漁師さんはウィンチで古いワイヤーを回収する。

次に僕が潜る。今度は新しいワイヤーを方塊に固定する作業である。ワイヤーの端にロープを結んで、そのロープとシャックルとを持って方塊に潜る。漁師さんはワイヤーをどんどん繰り出す。方塊からは小さなブイを垂直に立ち上げているので、場所を探す手間は要らない。海底には、ヘビのようにワイヤーがのたくっている。シャックルを方塊の側に置く。方塊の反対側に廻り、足で踏ん張って、ロープを引き、ワイヤーの端を方塊にたぐり寄せる。時計を見ると、もう7分を過ぎている。ロープを方塊に結わえ、浮上する。

こういう手順で、8本のワイヤーを交換するのだが、シャックルピンが抜けなかったり、直径5センチほどもある太いシャックルが曲がっていたりして、順調には進まなかった。定置網の小屋で、漁師さん達と一緒にご飯を食べながら、「無理を絶対にするな。水の中じゃ、おめえ一人が幾らふんばったって、動かんもんは動かん。力を入れすぎるな」と注意されていた。

3日目、作業が終わって、残り1本となった。その時、僕は右肩に変な感じを覚えた。少し、だるいのだ。肩を揉んでいると、南里さんは直ぐに気が付いた。「今は揉むな。どんな感じか?ちくちくするか?かゆくはないか?」。あんな顔は余り見たことがなかったので、心配になった。「ちくちくしません。かゆくもない。何か、だるい感じです」というと、「もう、今日は何もするな。ボンベも持つな。片づけは俺がするから、宿に先に行って、休んでおけ。重たい物は絶対持つなよ」

さいわい、減圧症ではなかった。たんなる筋肉痛だったようだ。米国海軍のダイブ・チャートをいつも持っていた。最近の深場の作業では、酸素ボンベを船に載せている。(株)ベントスで酷い潜水病に罹った社員はまだ居ない。これからも絶対に出て欲しくない。  

有明海

有明海は透視度が低い。しかし、潮が良く通る場所では、海底の砂の粒度が大きく、潮が動き出すと、堆積していた浮泥が飛ばされるので、「ほう」と思うほど、綺麗なときがある。一度、南里さんが様子を見に先に潜った。直ぐに上がって来て、おらんだ。ニコニコして、「よごくん!ブルーハワイや!!」

ブルー・ハワイは良く口にしていた。海児君が側にいる時は、「ハワイで泳いだことなんかなかろうが」と呟いていた。


関門海峡

関門海峡には春になると、コウイカ、シリヤケイカ、カミナリイカなどが産卵の為に接岸してくる。埋め立てを拡げるために、コウイカ類が何処に燦々しているか、何に産み付けているかを調べる業務だった。速いときは、6,7ノットで潮が走るので、一番、潮をが緩い時を狙って調査した。港であるから、こぼれた積み荷が沢山沈んでおり、コウイカ類は、オウギフトヤギや海藻などの生物の他、自転車のスポーク、ワイヤー、建材、釣り竿など、細長いものには手当たり次第に産み付けていた。卵の大きさや色で、どのコウイカが産んだものかも知ることが出来た。

ある時、海に張り出したコンクリート岸壁で、下が柱で支えられている場所があった。その柱を調べに入った。僕が写真用の看板と水箱を持ち、南里さんがニコノスと50cmの坪刈り枠を持っていた。下は真っ暗だった。ふとしたはずみで看板を落としてしまった。何も見えない。南里さんの呼吸音だけが聞こえる。しまったと思ったけど、どうして良いか分からない。ここを動くまいと決めた。2分ほど待っていると、南里さんが側に来て、僕の両手を手探りで調べた。看板がないのに気が付いたらしい。それから、僕の肩を柱の方へ押すようにして、ポンポンと軽く叩いて底に沈んでいった。直ぐに上がってきて、僕の手に看板を渡してくれた。

以上、僕の潜水日誌、研究ノート、業務日誌、記憶に基づいて書いてきました。ここで第1部を終了します。これから、ご親戚や友人の方々に取材し、また、書きます。また、お付き合い下さい。                            03/25/2004 余吾 豊



3/28に、弟さんの南里憲三さんとお会いしました。楽しく、約6時間、寛治さんのお話を伺いました。寛治さんは、また、新しい友達を僕に下さいました。「南里さん、ありがとう」

第1部 編集後記

 南風泊通信は旅の中で出会ったことを、そのまま、空想も含めて書いていました。年が少し嵩み始めると、いつまでもそこにあると思っていたようなことが無くなっているのに気が付きます。それは、風景であったり、自分の中のものであったりします。それを書きとどめます。

haedomari press

南風泊通信記 「大好きな人:漢(おとこ)、寛治」 第2部

3/28に、弟さんの南里憲三さんとお会いしました。楽しく、約6時間、寛治さんのお話を伺いました。寛治さんは、また、新しい友達を僕に下さいました。「南里さん、ありがとう」


                     03/30/04 余吾 豊

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