6.二度目の南の島:八重山群島 復帰した年(昭和47年)に2度、訪れました。
復帰前。
留年中の郵便配達で、かなりの収入を得た。すぐさま、県庁へ行き、海外渡航課で沖縄行きの手続きをした。沖縄が米軍統治下で、日本政府と琉球政府との間は、異国の関係にあり、渡航許可証の給付を受けなくてはならなかった。さらに、種痘の予防接種も必要だった。ともかく、面倒なのは仕方ないが、県庁に入り、用件を受け付けで申し出た。係員は、ぞんざいな態度で、申請書を顎で示すと、書けと云わんばかりの仕草で、じろじろ見た。そういう態度には、しじゅう出会うので、気にもせず、書き込んでいった。途中に、身元引受人という欄があり、心当たりがなかったので、空けておき、その他の欄を埋めて、係員に差し出した。男は執拗に僕の書き間違いを探している様子だったが、身元引受人の処で、にやりとして、それから、急に、まじめ腐った顔になり、’引受人がないと出せないんですよ’と言った。
「引受人て何ですか?」と訊くと、「外国だから、もしも、あんたが何か起こした時に、向こうの政府に迷惑を掛けないように、身元保証をしてくれる人が必要なんです。日本政府としては、それがないと、出すわけにには行きませんので」ともっともらしく、深刻ぶって言う。「自分には、そんな知り合いが沖縄には居ないけど、大勢、団体旅行で沖縄へ渡航している人達は、皆、そんな人が居るのか?」と訊いた。彼は曖昧に笑い、さあと、相手にしなかった。その男が、僕の申請書を、屑篭に捨てそうにしたので、「分かったから、探して来てみる。それはまた必要になるから返してくれ」と言うと、彼は、紙を投げるようにして戻した。
「公僕」という言葉は死んでいるね。
「困ったな」と思ったが、自分の言った言葉に気付き、直ぐに、県庁前の旅行代理店に行き、店で一番綺麗な、受け付けの女性に用件を伝えた。彼女は笑って、「お掛け下さい」と言い、「1500円掛かりますが」と僕の顔を伺った。首を縦に振ると、彼女は、申請書用紙を受け取って、和文タイプで、全く知らない沖縄の人の名前と住所と電話番号を打ち出してきた。面白いシステムだと思い、あきれるより寧ろ、楽しくなった。
それから直ぐに、渡航課へ行き、例の男を掴まえ、「幸いに、引受人が見つかりました」とはっきり言ってやった。
3月20日、夜行の急行で、鹿児島へ行き、夕方の琉球海運のフェリーで沖縄の那覇港に向かった。朝、目覚めて、デッキに出ると、初めて見る沖縄の空と海に圧倒された。空が回転していると感じた。那覇から船で石垣島に渡り、直ぐに、オンボロ船で与那国島へ渡り、与那国島は徒歩で一周した。色彩の豊かさに驚いた。与那国からの帰りは飛行機(YS11)と贅沢したが、機窓からの石西礁湖の美しさには感動した。石垣島を中継点に、3,4泊ずつ位のペースで、西表島、竹富島を廻って、那覇港に戻り、福岡に4月の初旬に帰った。3週間あまりの旅で、6万円位使ったが、少しも惜しいとは思えなかった。民宿は3食附いて2ドル50セントだった。その時の下宿代は4千円。授業料は1年に1万2千円だった。
この旅行は実にファンタスティックで、また、郵便配達をして10月に再度、八重山を目指した。進学の時期に当たるが、関係ない。ただ、問題だったのは物理学1のテストである。これは関係ないでは済まされない。こんな僕でも実に恐ろしかった。前期は16点だった。今度百点を取っても平均60点には達しない。一体、どうするのでせうか?
復帰後。
再試の日が来た。教養部から専門学部への進学判定会議の4日前で、教授が学生課の教務に成績を提出する期限の前日だった。広い教室に、一人、座り、物理学の教授が自ら、問題用紙と解答用紙をくれた。彼は、一時間後に来ると言って出ていった。問題は5問。
教授は、今度、百点を取れば、少し下駄を履かせようと言ったのである。これに賭けない理由は僕には存在しない。
1時間経ち、さらに10分経った。その内の4問を完全に解いたが、残りの1問、物体がシグモイド曲線を描いて運動した時のエネルギーの総和を求めよという問題を途中まで解きかけていた。しかし、積分の計算で止まってしまっていた。こういう問題を解いて、何かが解決するのだろうか?人生には全く関係ないじゃん。シグモイド曲線は神経を麻痺させ、高速道路には向かないのだろうが。そんなことを呟いていても解答用紙は埋まらない。そこに、その場では関係がないとはとても口に出せない教授が入ってきて、僕の解答用紙をじろじろと見た。
”何だ。まだ1問出来て無いじゃないですか”
”いえ。今、解いているところで”
”後、15分くらいだよ”
”はい”
”そこの積分が出きんのでしょう”
”ちょっと、度忘れしてしまって。この前は出来たんですが”
”分母の、ルートを開かないと”
”ああ、そうか。そうやった”
かなり進み、ゴールが見えた気がした。が、その先でまた行き詰まってしまった。
”ほうら、時間がないよ”
”後、少しですね”
”そうだな”
”思い出してきて居るんですが、その”
”その、何ですか”
”思い出すまでに、時間が足りそうになくて・・・”
”困った人ですね”
”はあ”
”鉛筆を貸しなさい”
彼は、鉛筆を取り上げて、僕の計算の続きを、少しした。盲点となるところで、その後を仕上げ、解答に持ち込んだ。
”出来たようですね”
”はい”
”では、出しなさい。採点の結果は、30分後に私の部屋に来なさい”
まさに奇跡だった。僕はあろうことか、100点を取り、何とか、平均点58点というサーカスで、必修の物理をC評価できわどくクリヤした。教授は、曖昧さを許さず、無味乾燥としか言いようのない物理学の法則に逆らい、2点もおまけしてくれたのである。これではロケットは飛ばないだろう。しかし、偉そうにしている研究者の作ったロケットは落ち続けて居るではないか!
でも、僕はシグモイド曲線で設計された人吉のループ橋を車で走る時、教授の安寧をいつも祈っているのである。
無事、進学に必要な単位を取得し、教養部の教務に、進学希望学科を第一志望:水産学科、第2志望:林学科、第3志望:畜産学科として提出し、農学部の学生課に「進学が少し遅れる」と連絡して置いて夜行に乗った。僕は学生運動家ではないかという噂が水産学科で広まっていたそうだ。そんな訳なかろうもん。
もう、心は南国に飛んでいた。あの教授は天使の様な、メシアのような方です。ああいう先生が今の日本には絶対に必要ですね。
那覇から友人に電話すると、「水産学科へ進学していたぞ」と聞いた。それからは我を忘れて遊びほうけた。怖いもの無しである。竹富島、小浜島を中心に泳ぎ回り、「種取り祭り」での饗宴騒ぎに巻き込まれて、警察のご厄介にもなった。でも、途方もなく、楽しかった。この後、八重山には十数度、訪れることになった。岡本一志さんが居た黒島には何度も通い続け、新城島にも行ったし、西表も訪ね直した。一度目の訪問で出会った牧場主の処や、リーフ・チェックで活躍している佐伯さんとも再会した。