南風泊通信記 「人と旅と風景」

僕が旅で出会った人と風景についての雑記録
12/15/06 開始 余吾 豊

1.はじめに 12/15/06
2.
幼い旅 12/15/06
3.
安易な旅 12/15/06
4.
日常の旅 12/05/06
5.
初めての南の島への旅 12/16/06
6.二度目の南の島:八重山群島 12/17/06
7.心を揺り動かした海辺、坊津。 工事中
8.美しい水辺:ニューカレドニア、イル・デ・パン 工事中
9.僕の本当の旅:工事中、
10.里程のない旅:不埒な旅もある。工事中

 はじめに

 少し年をとり、動くのがおっくうな時もある。若い時は、後先を考えずに軽い財布と荷物で出掛けたのだけど、どうも、この頃、出足が鈍り、荷物だけが重くなる。財布が重くなったというわけではないけども、どうにも尻にイカリが付いているような感じである。長い旅には焦がれるし、小さな旅もそれは、それで良い。しかし、動き出すのが遅い。

 ところで、英和辞典には、こんなことが書いてあった。

 TOUR::観光や視察のため諸処を歴訪して出発地へ戻ってくる旅
 TRIP:短い旅(米国では、期間に関わらず、行って戻ってくる旅)
 JOURNEY:割りに長い旅で、元の場所に帰る意味は必ずしも持っていない
 TRAVEL:一番広い意味での旅
 
 ホホウと思います。特に出発地に帰るのかに拘っているところが深いのでは。

 僕の旅行用の手帖には、TRIP LOG と書いています。戻ってくることが当然だからなのですね。そうな概旅もしないし、常に戻れる場所があるから、旅に出るのでしょうが、そうではない旅もまたあるんでしょう。

 そういう旅って、憧れもあるし、怖い気もしますね。

 タミー・ウィネットとデビッド・ヒューストンのデュエットで、カントリーウェスタンの歌に「二人の青い鳥」というのがあります。これは、帰る場所のない旅で、これこそ、人生ってものなのかななんて感じるようになりました。55才で、まだ、若造がと言われるかもね。

 日本では、旅というのは、行って帰ってくるのが常識で、JOURNEY のような意味合いを持った言葉というのはあるのでしょうか? 股旅?どうなのかなあ?

 年末、また、鹿児島へ行く。不思議な旅になる。人と人の繋がりの難しさ。それがきっかけの小さな旅で、決して楽しい出発点ではないが、僕は行く以上は楽しむつもり。転んでもただでは起きないぞ。僕は町の子、巷の子なのだ。

2.幼い旅

 僕は北九州市の小倉北区室町と言うところで育ちました。家は、蕎麦屋をやっており、その頃は旧小倉駅の近くで、賑わう商店街の中でした。蕎麦屋と言っても、夕刻には飲み助の客も来るので、早朝に、もう亡くなった祖母と今も元気な母とが、酒の肴も求めて朝の買い出しに出掛けていました。その頃は、スーパーなどはないのですけど、朝に地元の漁師さんの奥さん達が行商で鮮魚や乾物を売りに来ていました(カンカン部隊と言われてました)。その人達は、山口県の川棚から鮮魚、山口県安岡や綾羅木からの乾物、野菜、切り花、福岡県豊前市から鮮魚という3部隊でした。僕はこの買い出しについて行くのが好きで、小学生の時にはかなりの魚の名前を覚えていました。地方名なのですが、アラカブ(カサゴ)とカラカブ(アヤメカサゴ)も見分けていました。
 その他、豆腐、野菜、金魚、刃物研ぎ、傘の修繕、雑貨等の行商の方が沢山居られ、僕は、そういう人達が家の近くにリヤカーを停める度に飛び出して行って、観察していました。

 外で遊び回れるようになると、最初に始めたのは、フナ釣りです。小学生の頃で、小倉城の堀が遊び場です。何度も石垣から水に落ちました。もう絶対に行ってはならないと父親に叱られ、それでも、なお、落ちました。知恵が付いて焚き火を覚え、服を乾かして家に戻ったのは良いのですが、その頃は銭湯の生活で、パンツを脱いでいたら、親父から、「また、堀に落ちたんやろうが!」と叱られました。尻には、乾いた浮き藻が一杯に付いて居たんですね。それでも、ザリガニ採りも始め、少しずつ、海の方に進出して、ハゼ釣り、ボラ掛け、赤潮の時の魚掬い、タコ釣り、もう少し、発展すると、刺し網で川のオイカワなど採ったり、水中眼鏡を買って貰って砂地に潜ったクサフグを突いたり、貝を捕ったりしました。僕は、虫取りには余り興味がありませんでした。セミ、バッタ、カブトは捕っていましたが、魚を掌にした時の感触を越えるものを虫が僕には与えなかったということかしらん。

 この時代の小学生なんて、自分だけで旅をする機会はそうあるものではありません。僕には全くその機会がなかったので、自分の子供達には少しだけさせました。心配ですが、やらせると面白いです。小学校の頃を思い出すと何時も感じるのですが、とても一日が長かったように思えます。長すぎて困ったと言うことではなく、何時間あっても足りなかった、日が落ちるのが早すぎると感じました。学校への行き帰りも小さな旅みたいなもので、水溜まりがあると、それを飛び越すのが一日の自分のミッションと思いこんで、足止めを喰ったり、氷柱があると、それは遅刻してでも自分が手にしないとならないトロフィーのように感じました。途中に会いたくない悪ガキが居ると恐怖でしたね。それを避けて学校までたどり着くのもスリルでした。学校の休み時間なんて10分間だけでしたが、それでも、友達の居るクラスへ行き、昼休みと放課後の遊びの相談をし、水を飲み、最後にトイレに行くという、かなりのことが実行できる時間でした。昼休みなどは、場所取りで戦争でしたが、毎日、毎日、それこそ本当に宝物のような時間でした。

 皆さんも覚えがあるでしょ。いま、10分間なんて、何にも出来ない時間ですよ。どうしてでしょうかね?

 家の近くの川のことを書きましょう。紫川と言います。福地山が源流です。
僕の家は紫川の河口のすぐ近くでした。勝山橋から見下ろすと、上げ潮に乗ってボラ、サヨリ、ダツなどの背中に興奮し、どうしたらあやつらを獲ることが出来るのかを研鑽していました。その頃は、素抜きの竹竿が売ってありました。50円位だったですかね。節の並びが良く、しなる竿を買い求め、ニスを塗ったり、手元に凧糸を巻いて、その上にカシュウ塗料を塗ったりして腕を撫していました。これに太いテグスを付け、先にイカリ針を結んで、橋上から、下を通りかかるボラやサヨリを引っ掛けて獲るのです。

 その頃に不思議なことがありました。サヨリの中に、時々、変な奴が居るんです。嘴(正しくは下顎)に何かを巻き付けた奴が居て、僕らはゴム輪を巻いたサヨリだと思っていました。しかし、そのサヨリを手にすることは出来ず、今も何だったのかなと思います。

 子供ながらに「旅かな」と思った出来事があります。紫川の上流に桜橋という場所があり、ここは堰の上に瀬があり、全体に浅いので安心して魚獲りに興じることが出来ます。僕は夏のキャンプの時に、川の深みに足を取られて溺れかけたことがあり、海より川の方が怖かったです。友達の一人、S君が父親が買った刺し網というものを持ち出し、これで魚を捕ろうと持ちかけました。彼の父親は、夏は船釣りの船頭で、冬は鳥を撃っていました。彼の家は、いわゆる、売春酒屋(赤線)で、その頃の小倉の紫川界隈にはその手のお店が沢山ありました。子供なりになんとなく怪しいとは知っていましたが、そんなことより、彼の刺し網の方が魅力たっぷりでした。毎年、夏休みには彼の親父の船で五目釣りを楽しんでいましたので、職業などどうでも良かったですね。惜しいことに彼の親父さんは、その後、船から落ち、亡くなりました。

 バスに乗って桜橋に行き、早速、刺し網を張りました。どうやって追い込むのかとか言うことも知らず、その後は水遊びをしていました。時間が過ぎ、網の所に行ってみると、網が無いのです。皆で探しましたが、流されたようで茫然。何時間も探しました。その内に、腹は減るわ、喉は渇くわ、陽は落ちかけるは、皆が心細くなったことは言うまでもありません。なにより、高価な刺し網を無断で持ち出して、なくしてしまった彼の気持ちが手に取るように分かっていました。暗くなり始め、いよいよ、皆の気持ちが同じことを考え始めました。家には何も言わずに出てきたからです。しかも、皆の有り金を合わせても、帰りのバス代に足りないのです。アイスクリームのせいです。それに、無駄とは知りながらバス停に行くと、もう、帰りのバスはありません。この時の気持ちは、中学の国語の時間に読んだ、芥川龍之介の「トロッコ」で見事に再現されましたね。

 仲間の中で一番冷静なI君が、担任の家がこの近くだから、そこに行って、なんとかして貰おうと言うことになり、敗残兵は一列となって、I君に続きました。そのお家にはたどり着けましたが、お留守でした。で、どうしたかというと、もう、真っ暗になり、家ではどういう騒ぎになっているかは子供でも容易に想像できる状態でしたので、道に出て、車を止めることにしました。人生、最初のヒッチハイクです。

 奇跡が起こりました。並んで走ってくる観光バスの最後の車両が停止し、バスガイドさんが「何をしているの!ひかれますよ」と降りてきました。ところが、そのバスガイドさんは、なんと修学旅行の時のそのガイドさんだったのです。見事、バス・ジャックに成功。
皆でワイワイとバスの中で騒ぐ中で、段々と心が萎えてきました。親のことです。これほど遅くなると、心配性の親父がどのような心境に至っているかは容易に想像できます。

 奇跡は続きます。その日、親父は急性盲腸となり、入院していました。母が妙に嬉しそうと言うか、安堵の表情を浮かべているのが子供心にもはっきりと分かりました。

 高校入学前の休暇に友人3人と宮島を旅行しました。彌山にも登りましたよ。当時、「コンバット」のサンダース軍曹に憧れていた僕は、米軍払い下げの水筒を腰にぶら下げ、その気になって斥候となり、山道をかけめぐったものです(サンダース軍曹役のビッグ・モローが福岡市に来た時は、会いに出掛けました)。また、手こぎの貸しボートに乗り、満ち潮で神殿の中まで流され、神官に叱られても思うように戻れず、回廊の観光客の喝采(嘲笑)を浴びました。

 その時もまさに春が一杯。受験が終わり、宿題もないし、良い春休みだったなあ。


3.安易な旅 工事中

 大学の教養部と学部生時代、随分と安易な旅に出た。それは東南アジアを廻るとか、ユーラシア大陸を横断するとか、そんな規模ではない。その替わり、あっという間に旅に出ていた。

京都ー1:大学1年の夏、京都にいる立命館大学の友人を訪ねた。アルバイトをするためである。万博が開催されていた時機だった。しかし、アルバイトは見つからず、彼に寄生した生活を送った、その代わり、炊事は僕がした。彼の下宿には5人くらいの大学生が居り、たちまち、麻雀が始まった。僕はとことん負けた。相当に自信があったのだけど、フリテンあり、後付ありという地方のルールにしてやられたのである。借金が溜まった。それは返せなかった。万博にも行ったが、何も感じるものはなかった。綺麗なコンパニオンと写真を撮ったのが嬉しかったくらい。

神戸ー1:大学2年(在籍は3年目)の夏、天草で臨海実習があった。その後、友人が潜りに興味を持ち、長崎の野母崎で潜った。それから、彼は病こうもう(潜水病)になり、また、海に連れていけというので、串本に行った。そこで、岡本一志さんと出会った。スズメダイの研究者であるが、串本海中公園センターでは毎晩、麻雀だった。そこでは勝ちまくった。嵐山での経験が活きたのである。その帰り、神戸に寄った。最初の八重山行でお会いした素敵な女性を訪ねた。カレーライスを食べ、それから「ソネ」というジャズ喫茶に行き、そこでお別れした。フェリーに乗って帰った。

京都ー2:大学2年の冬、立命館大学の友人を訪ねた。神戸で飲み、それから京阪で嵐山に向かった。嵐山に着いたのは12時を過ぎており、道が分からなくなっていた。警官官から職質に遭い、逆に住所を聞いて歩いた。また、麻雀大会となった。

神戸ー2:京都ー2の後、最初の八重山でお会いした素敵な女性をまた、訪ねた。「シャガール」という喫茶店で会い、その後、「デッサン」というお店で飲んだ。気がつくと、フェリーは出航した後で、僕は国道2号をとぼとぼと歩き、ヒッチハイクで福岡に帰った。とても楽しかった。しかし、化学実験をさぼって行ったので、帰ると担当教官から叱責を受けた。

日田ー1:高校の剣道の友達とサッカーの友達全員は同時に落第、そして浪人後、剣道部のユージ君と、サッカー仲間のタカシ君と一緒に九大に進んだ。タカシとは下宿が同じで、ユージも近くにおり、何時もよく遊んだ。ユージ君は山岳部に入った。タカシ君はサッカー部、僕はヨット部に入った。その後、グライダー部に入ったゆうじ君も同じ下宿に住んだ。
ユージの弟のセージも近くにおり、その後、セージは僕の部屋に転がり込んで半年居座り、混み合うことになっていた。ユージは日田が故郷で、一度遊びにいった。博多から汽車で行き、彼の叔父の家に泊まった。まさか、その後に日田に済むことになろうとは思わなかった。僕が勤めた高校には、そのおじさんの息子の娘が看護科の生徒として来ており、ヨゴノオジチャンと呼んでいた。ユージは、その後、鹿大へ写り、その後、早大へ進んだ。今もお付き合いがあり、協会の会員でもある。ユージの長男は早大へ進み、山岳部に入り、不帰の人となった。

僕が日田に居る時だった。僕は捜索費用の義援金を職員室で募った。ニュースで遭難の報を見たとき、直ぐに彼の息子と分かった。電話を入れたが、その時は両親共が希望を持っていた。僕の方が絶望に近く、逆に励まされたような感じを受けた。しかし、後の報道から、その日には絶命していたと思われる。

組合を対象に弔意文を廻し、義援金を募った。



日田ー2:院生から研究生生活となり、奨学金も切れ、いよいよ行き詰まってきていた。あれやこれやトラブルが生じ、お金にも困り、にっちもさっちもいかなくなって、山の中の高校での教員の面接試験を受けることになった。行きたくなかったが、仕方がない。朝、起きて、「やだなー」と思いながら、不承不承、顔を洗い、車に乗って日田市へ出掛けた。学校の名前が書かれたスクールバスが前を走っていたので、それについていった。らくちん。高校へ着くと事務員が玄関を開けてくれ、それから面接となった。校長が煙草を吸うので、僕も吸い出すと、途端に理事長代行が眉をしかめた。「理科の他に英語や数学も担当して貰います。よろしいですか?」と聞く。

そんなことは初めて聞くが、「どうでもいいやねー」と思い、「できると思いますけど」と気迫のない答えを返した。もう、やけくそである。

帰ってから、お世話をしてくれた教授に電話すると、「どんな気持ち?」と聞く。僕は「落として欲しいような、拾ってくれたらいいような、そんな気持ちですね。」と答えた。「うん、分かるよ」と言ってくれた。採用され、想像も出来なかった女子高教員のすざましく、ある面では思いがけなく楽しい教員生活が始まった(楽しいという意味に誤解がないように願います)。

4月1日付けで採用となり、職員室に座っていたが、理事長代行が「今日は世界禁煙デーです。本日より、職員室をはじめ校舎内での喫煙を禁じます」と宣言した。かれは禁煙パイポを銜えていた。やだったなあ。なんで、こうなるん?

4.日常の旅(バイトの話) 

郵便配達:毎日が小さな旅だった。大学で留年した時、物理学1を再々履修するだけで、時間が余ってしまった。サッカーが好きな僕は体育の単位は取っていたのだけど、教官に理由を説明し、同じ日に履修した。それでも、他の日は余ってしまう。近所のお兄さんに相談すると、郵便配達のアルバイトがあるという。なんとなく、牧歌的で、しかも、一日中、建物中にいなくて済むので、直ぐに応募して始めた。それはかなり楽しい業務だった。何より嬉しかったのは、3月にランドセルの書留郵便を届ける時だった。子供が待ちわびており、とても喜んだ。

ある日、小包を届けると小さな女の子が一人で留守番をしていた。「印鑑は何処にあるか知っている?」と聞くと、首を傾げ「知らない」という。実に可愛い。「自分の名前は書けるん?」と聞くと、「教えてくれたら書ける」と答える。紙にひらがなで書いてやると、一生懸命、まねをして書いている。そこにお母さんが帰ってきて、変質者と間違われた。私服だったからである。直ぐに納得していただいて、印鑑を貰った。今のご時世だったら、悲鳴が上がっていただろうと思う。

ビルの夜警:大学2年にビルの夜警のアルバイトを始めた。毎日、電車に乗って、貝塚駅から天神まで乗って、舞鶴と言うところにある「花の関物産」という会社に出掛けた。古いビルで、小さな門衛所があり、そこに寝泊まりする。毎日。戻ってくる会社の車の入庫を記録し、ガレージの扉を閉めるだけの簡単な業務。毎晩、麻雀の溜まり場となった。

家庭教師:受験間近の中学生を2週間で特訓した。少し遠かったが毎日、通った。その間に繁華街を通るので、買い物でかなり浪費した。最後の日にごちそうになり、月に降り立ったアームストロング船長の有名な発言を一緒に聞いたのがこの時。幸いに、合格してくれたので、かなりのお礼を頂いて、春休みに与論に行けた。

家庭教師:高校3年生の時、剣道部の監督から息子さんの家庭教師を頼まれた。中学3年である。彼が毎日、僕の家に来て、英語と数学を勉強した。中学3年の英語の教科書を全部テープに録音して彼に渡し、毎日聞いて一緒に読めと指示した。英語は理屈でなく、暗記が一番である。彼は良く約束を守り、希望していた高校に入学したが、僕は大学を2つとも落ちた。監督がとても気の毒がっていた。

運送会社:高校3年の夏休み、近くの運送会社で夕方の2時間だけバイトをした。最初は時々ミスをしでかしたが、やがて慣れ、結構なお金を貰い、テントを借り、盆休みに山陰の無人島で友人と4日間のキャンプをした。その島に送ってくれた漁師さんから岡本太郎の本を頂いた。真水がとても少ない島だった。漁師がタマネギを沢山渡してくれ、「これを生でくっておけば腹をこわさんぞ」と言われていたので、そればかり食っていたが、テントの中が異様に臭かった。

ホテルのバイト:大学2年の夏休みに叔母が勤めていた佐賀県のリゾート・ホテルのバイトに行った。地元の高校生と専門学校生が50名くらいきていて、大学生は僕だけだったので、僕が責任者にされた。不意打ちを食らった。まさに経営者の勝手である。作業は浜辺での貸しボートの管理、掃除、ベッド・メーキング、草刈り、海水浴場の飛び込み台の設置等だった。飛び込み台の設置では一人が溺れかけた。太平洋を横断したヨットマンが愛人と来ていた。台風が来そうなことがあり、被害が出た時に対応できるようにと男子高校生を5人ほど泊め、そして待つ間に麻雀を教えた。彼らは僕のビールを飲みはじめた。ビールに酔った高校生がロビーに出て騒ぎ、次の日に僕は即刻、解雇となった。それはそれでよいが、ばからしいたらありゃしない。客は一人も居なかったのである。叔母も怒り、そこを辞めた。ご免ね。

 彼らの一人がバイクで通勤し、僕はそれを借り、無免許だったので駐車場で練習していた。一日だけ公道を走った。県境だったので、幸いに取り締まりがない。しかし、危うく、カーブを曲がりきれないでガードレールにぶつかり掛けた。怖かったです。でも、バイクは楽しいな。そのバイクはカワサキの「W−1」という650 cc で、ドドドという音がえらく好ましかった。「マッハ3」という機種もあったな。これは2サイクルで、ジェット機のような精悍な音をさせていた。それから、ホンダのCB450、バイクでは最初だった(かな?)ツインカム・エンジン搭載で、これも良かったし、スズキの「刀」というのにも憧れたなあー。ほれぼれするような姿態だった。キャンパス内を走るためにCB50は一時持っていたけど、未だにバイクの免許は持ちません。アラン・ドロンの「あの胸にもう一度」という映画知っていますか?バイクが出てきて、楽しかったです。「冒険者たち」でも、良いサイド・カーがでてますし、「ル・ジタン」と言う映画でもバイクが大活躍。アラン・ドロンはバイクが好きなんでしょうね。アラン・ドロンを顔が良いだけの大根役者なんて、評論家がよく言っていますが、彼の「刑事物語」などを拝見すると、滋味があり、「それだけではないでしょう」と言いたくなります。

 まあ、「冒険者たち」では、アラン・ドロンはリノ・バンチェラに完全に喰われていましたが。リノ・バンチェラでは「男の女の詩」も良いですね。僕は「冒険者たち」の音楽と、ヒロインが大好き。あの口笛をよく楽しみます。ヒロインの名前が出てこないのですよね。あーあ。女優では、ナターシャ・キンスキーも良いし、「思い出の夏」のジェニファー・オニールも好きだなあ(「リオ・ロボ」にも出ている)。淀川長治さんは、ジェニファーさんを馬鹿で、大根役者と言っていましたが、それはあんまりでしょ。日本の女優ではなんと言っても吉永小百合。僕が大好きな松田優作との「夢千代日記」は最高だったなあ。日本男優では、笠智衆、仲代たつや(だった?)、女優は、もう沢山あって、とても書ききれませんし、名前も出てきません。

 自分の好みだけ言っていますが、好みの違う方はご容赦を。

日雇い人夫:いよいよ、下宿代の支払いが差し迫ると、僕は予備校の食堂に潜り込んで食事を摂ったり、学生金融と言うところへ駆け込んだり、質屋へカメラを預けたり、オリンピック金貨を売ったり、色々とそれなりに工夫をしていましたが、どうにもならなくなると、築港と言う港へ行き、たちんぼです。船倉からのバナナの引き揚げ作業から始まり、その後、様々な建築現場へ資材の運び上げ、大してきつい作業ではなかったですが(若かった)、時間が長く、朝、6時から夜の12時まで掛かりました。日当を貰うと、一ヶ月分の下宿代が払えました。

潜水業務:これは「好きな人、漢(寛治)」に書いています。

罪なバイト:翻訳。この仕事の仕上げは酷いものではなかったでしょうか?薬剤会社からの依頼で、教授から下げられ、てんで勝手に訳していましたが、とても日本語の訳になっていたとは思えません。合掌。

アセスメント:余り詳しくは書けませんが、色々と関わりました。思い出に残っていることを少し。工事中。

5.初めての南の海:与論 12/16/06

 僕が南へ行こうと思ったのは「銛を持つ淑女」(法政大学出版会)と「サンゴ礁への招待」(北隆館)と言う2冊の本を読んだのが直接のきっかけである。大学に入り、自由にバイトが出来るようになって、お金を作り、与論島へ先ず出掛けた。その頃は沖縄の本土復帰の前で、日本の最南端が与論島だった。鹿児島まで夜行急行。鹿児島から大島運輸だったか、琉球海運だったか、フェリーの2等に乗り、途中、奄美、徳之島、沖永良部を経て、与論へ。

 僕は野宿するつもりだったから、小倉の家から親父の登山用具を黙って拝借していた。しかし、与論島に着くと、港には提灯を持った民宿の人が沢山で迎えに来ており、おやおやと思った。一人、ぽつねんとしていると、おばちゃんが寄ってきて「今日、泊まるところはあるのか?」と聞く。訳を話すと、「素泊まりで良いよ」というので、ついていった。

 与論の海を見たときは、「これこれ、この色が見たかったんや!」と思った。クリスタル・クリヤーというのでしょうか?実に美しかったですね。民宿には大学生が大勢いて、毎晩、酒盛り。夜が更けるとギターをもって砂浜へ。僕は少しギターが出来たので、「海は恋してる」とか「風」なんか歌いました。それからはギター無しで、「××××の7不思議」、「数え歌」、「青い山脈」など、春歌のオン・パレード。結構、受けましたね。

 未だ、海の知識はなく、オオイカリナマコをウミヘビと思ったり、魚の名前も分からないものばかり。民宿では台所でご飯を炊いてサンマの缶詰を喰っていると、おばちゃんがおかずをくれました。

 浜辺では小学生が体育授業で相撲をし、サングラスを掛け、黒いハーフカットのビキニとマッキャンベルのジーンズを付けたかっこいいお姉さんが素敵な姿態を晒し、髪を長くした大学生と、髪を短くした大学生がエコーやゴールデン・バッドをくゆらして女の子の品定め。裾の拡がった、ボタンの沢山付いたジーンズをはいた女子学生が文学論や政治論を闘わせていました。もう、夢というか幻のような時代でしたね。この時代、学生運動で、閉鎖されていたキャンパスが結構多かったのです。僕が行った九大も、入学した頃はコンピューター・センターの屋上には墜落したファントム戦闘機が網を掛けられたまま残っていました。しょっちゅう、内ゲバが続き、僕は吐き気を覚えました。

 ある日のこと、授業中に内ゲバが始まり、機動隊が入ってきました。事務室の前では事務長が学生に囲まれていました。「何故、機動隊をキャンパスに入れたのか?」と学生が聞くと、「けが人が出る怖れがある」と答えていました。「じゃあ、俺達が集合していると、別のグループが襲ってくる可能性がある。その時に俺らが機動隊を呼んだって、あいつらは来てくれんやろう?」と学生が切り返すと、事務長は「それは君、ちいとおかしいのじゃないか?」と言い、周りを囲んでいた学生達が一斉に大笑いしました。その頃は、こういう腹の据わった事務長も居たのです。良い時代だった一面もありますね。

 でも、僕は派閥を作る学生運動はすごく嫌いでした。僕の好きな永井荷風がこう書いています。「私は生来、その習癖よりして、党を結び、群れを成し、其の威を借りてことを成すことを欲しない。むしろ、むしろこれを、怯となしている。(中略)。私は芸林に遊ぶものが、往々、社を結び、党を立て、己に与(くみ)するを揚げ、与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋(ろう)となすのである」と。僕はこのスタンスがとても好きなのです。

 これはあくまで、僕の個人的な好みの話ですが、自分もその時代にいると、遠ざかってはおれませんでした。クラスでは、しょっちゅう、討議が開かれ、クラス決議と称して、多数決で学級単位の授業ボイコットが行われていました。しかし、僕は、授業をボイコットするのは学生個人の責任で行うべきで、発言がしにくい人まで巻き込んでやる必要は何もないと感じていました。長く浪人をして、結婚もしているおじさんのような学生だっていましたが、彼らは発言を控えていました。そう言う意味の発言をすると、大抵、袋叩き(言葉だけですが)に遭いました。僕は「おまえらは馬鹿やー!」と言って、クラス討議をボイコットしていました。

 永井荷風の反骨精神は「ぼくとうきだん」(変換できない)の後書きにも良く現れている。職質をしてきた警官をやりこめるシーンが書かれているが、快哉であるな。すかっとする。彼の「ふらんす物語」、「隅田川」、「断腸亭日常」も大好きですね。

 AUNJも、「党を立て、その威を借りてことを成す」ような団体にはしたくないです。

追記: 事後、持ち出しが親父にばれて、「勝手に持ち出していたので山行に間に合わなく、登山用具を買い直した。毎月の仕送りから2千円ずつ返して貰うから」との連絡が入った。後から母に聞くと、「あれはあれでお父さんは楽しんでいたんよ。」ということだった。親父はもう死んだが、忘れられない。

6.二度目の南の島:八重山群島 復帰した年(昭和47年)に2度、訪れました。

復帰前。

 留年中の郵便配達で、かなりの収入を得た。すぐさま、県庁へ行き、海外渡航課で沖縄行きの手続きをした。沖縄が米軍統治下で、日本政府と琉球政府との間は、異国の関係にあり、渡航許可証の給付を受けなくてはならなかった。さらに、種痘の予防接種も必要だった。ともかく、面倒なのは仕方ないが、県庁に入り、用件を受け付けで申し出た。係員は、ぞんざいな態度で、申請書を顎で示すと、書けと云わんばかりの仕草で、じろじろ見た。そういう態度には、しじゅう出会うので、気にもせず、書き込んでいった。途中に、身元引受人という欄があり、心当たりがなかったので、空けておき、その他の欄を埋めて、係員に差し出した。男は執拗に僕の書き間違いを探している様子だったが、身元引受人の処で、にやりとして、それから、急に、まじめ腐った顔になり、’引受人がないと出せないんですよ’と言った。

 「引受人て何ですか?」と訊くと、「外国だから、もしも、あんたが何か起こした時に、向こうの政府に迷惑を掛けないように、身元保証をしてくれる人が必要なんです。日本政府としては、それがないと、出すわけにには行きませんので」ともっともらしく、深刻ぶって言う。「自分には、そんな知り合いが沖縄には居ないけど、大勢、団体旅行で沖縄へ渡航している人達は、皆、そんな人が居るのか?」と訊いた。彼は曖昧に笑い、さあと、相手にしなかった。その男が、僕の申請書を、屑篭に捨てそうにしたので、「分かったから、探して来てみる。それはまた必要になるから返してくれ」と言うと、彼は、紙を投げるようにして戻した。

 「公僕」という言葉は死んでいるね。
 
 「困ったな」と思ったが、自分の言った言葉に気付き、直ぐに、県庁前の旅行代理店に行き、店で一番綺麗な、受け付けの女性に用件を伝えた。彼女は笑って、「お掛け下さい」と言い、「1500円掛かりますが」と僕の顔を伺った。首を縦に振ると、彼女は、申請書用紙を受け取って、和文タイプで、全く知らない沖縄の人の名前と住所と電話番号を打ち出してきた。面白いシステムだと思い、あきれるより寧ろ、楽しくなった。
 それから直ぐに、渡航課へ行き、例の男を掴まえ、「幸いに、引受人が見つかりました」とはっきり言ってやった。

 3月20日、夜行の急行で、鹿児島へ行き、夕方の琉球海運のフェリーで沖縄の那覇港に向かった。朝、目覚めて、デッキに出ると、初めて見る沖縄の空と海に圧倒された。空が回転していると感じた。那覇から船で石垣島に渡り、直ぐに、オンボロ船で与那国島へ渡り、与那国島は徒歩で一周した。色彩の豊かさに驚いた。与那国からの帰りは飛行機(YS11)と贅沢したが、機窓からの石西礁湖の美しさには感動した。石垣島を中継点に、3,4泊ずつ位のペースで、西表島、竹富島を廻って、那覇港に戻り、福岡に4月の初旬に帰った。3週間あまりの旅で、6万円位使ったが、少しも惜しいとは思えなかった。民宿は3食附いて2ドル50セントだった。その時の下宿代は4千円。授業料は1年に1万2千円だった。

 この旅行は実にファンタスティックで、また、郵便配達をして10月に再度、八重山を目指した。進学の時期に当たるが、関係ない。ただ、問題だったのは物理学1のテストである。これは関係ないでは済まされない。こんな僕でも実に恐ろしかった。前期は16点だった。今度百点を取っても平均60点には達しない。一体、どうするのでせうか?

復帰後。

 再試の日が来た。教養部から専門学部への進学判定会議の4日前で、教授が学生課の教務に成績を提出する期限の前日だった。広い教室に、一人、座り、物理学の教授が自ら、問題用紙と解答用紙をくれた。彼は、一時間後に来ると言って出ていった。問題は5問。

 教授は、今度、百点を取れば、少し下駄を履かせようと言ったのである。これに賭けない理由は僕には存在しない。

 1時間経ち、さらに10分経った。その内の4問を完全に解いたが、残りの1問、物体がシグモイド曲線を描いて運動した時のエネルギーの総和を求めよという問題を途中まで解きかけていた。しかし、積分の計算で止まってしまっていた。こういう問題を解いて、何かが解決するのだろうか?人生には全く関係ないじゃん。シグモイド曲線は神経を麻痺させ、高速道路には向かないのだろうが。そんなことを呟いていても解答用紙は埋まらない。そこに、その場では関係がないとはとても口に出せない教授が入ってきて、僕の解答用紙をじろじろと見た。

”何だ。まだ1問出来て無いじゃないですか”
”いえ。今、解いているところで”
”後、15分くらいだよ”
”はい”
”そこの積分が出きんのでしょう”
”ちょっと、度忘れしてしまって。この前は出来たんですが”
”分母の、ルートを開かないと”
”ああ、そうか。そうやった”

  かなり進み、ゴールが見えた気がした。が、その先でまた行き詰まってしまった。

”ほうら、時間がないよ”
”後、少しですね”
”そうだな”
”思い出してきて居るんですが、その”
”その、何ですか”
”思い出すまでに、時間が足りそうになくて・・・”
”困った人ですね”
”はあ”
”鉛筆を貸しなさい”

 彼は、鉛筆を取り上げて、僕の計算の続きを、少しした。盲点となるところで、その後を仕上げ、解答に持ち込んだ。

”出来たようですね”
”はい”
”では、出しなさい。採点の結果は、30分後に私の部屋に来なさい”

 まさに奇跡だった。僕はあろうことか、100点を取り、何とか、平均点58点というサーカスで、必修の物理をC評価できわどくクリヤした。教授は、曖昧さを許さず、無味乾燥としか言いようのない物理学の法則に逆らい、2点もおまけしてくれたのである。これではロケットは飛ばないだろう。しかし、偉そうにしている研究者の作ったロケットは落ち続けて居るではないか!

 でも、僕はシグモイド曲線で設計された人吉のループ橋を車で走る時、教授の安寧をいつも祈っているのである。

 無事、進学に必要な単位を取得し、教養部の教務に、進学希望学科を第一志望:水産学科、第2志望:林学科、第3志望:畜産学科として提出し、農学部の学生課に「進学が少し遅れる」と連絡して置いて夜行に乗った。僕は学生運動家ではないかという噂が水産学科で広まっていたそうだ。そんな訳なかろうもん。

 もう、心は南国に飛んでいた。あの教授は天使の様な、メシアのような方です。ああいう先生が今の日本には絶対に必要ですね。

 那覇から友人に電話すると、「水産学科へ進学していたぞ」と聞いた。それからは我を忘れて遊びほうけた。怖いもの無しである。竹富島、小浜島を中心に泳ぎ回り、「種取り祭り」での饗宴騒ぎに巻き込まれて、警察のご厄介にもなった。でも、途方もなく、楽しかった。この後、八重山には十数度、訪れることになった。岡本一志さんが居た黒島には何度も通い続け、新城島にも行ったし、西表も訪ね直した。一度目の訪問で出会った牧場主の処や、リーフ・チェックで活躍している佐伯さんとも再会した。

7.心を揺り動かした古い町、坊津。 工事中

 坊津へ初めて訪れたのは1980年。中園先生と一緒だった。鹿児島の海は広く、それまでに、錦江湾、八代海、甑、口永良部島、トカラ、与論などで潜っていたが、薩摩半島周辺の海は未知だった。

8.美しい水辺:ニューカレドニア、イル・デ・パン 工事中
9.僕の本当の旅:工事中、旅とは・・未知に訪ね、お付き合いを重ねるものではないか? 
10.里程のない旅:不埒な旅もある。工事中

 まあ、いろいろとある。若気の至りや、人生の岐路、思いがけない出来事は幾つもあるものですね。その度に、震え、感動し、怯え、驚き、怒りまくり、泣き、後悔し、それでも、人は、なんとか、かんとか生きていくものだろうと思うな。つまらない人生では決してなく、しかし、やり直せない人生であることだけは確かである。それでも、生きていくのが人であり、それは人に限ったことでもなく、猫や犬でも全く同じだろう。記憶の差が違うだけなのだ。そんな中で、年甲斐もなく、若い文を書くこともある。恥を忍んでここに晒そう。

編集後記


 僕は色んな場所を歩き廻ることが好きだ。好きなところは何度も訪れる。しかし、時間が経ち、もう良いと捨てていってしまったのではないかと思い返すことがある。もう一度行きたいな、そういう気持ちを呼び起こしてくれる人や風景に出会った時のことを残しておきたい。

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