南風泊通信記 ページ2
古いものから上に積み上げています
御蔵島顛末記−番外編-3 (3/22/02)
御蔵島顛末記−番外編-2 (3/22/02)
御蔵島顛末記−番外編-1 (3/13/02)
御蔵島顛末記ーその5 (2/25/02)

御蔵島顛末記ーその4 (2/15/02)
御蔵島顛末記ーその3 (2/01/02)

御蔵島顛末記ーその2 (1/26/02)
御蔵島顛末記ーその1


南風泊通信記より 
御蔵島顛末記−番外編-3(3/22/02)
       少し古い、2000年の話

 最近、巨樹を訪ねるエコ・ツアーが盛んになりつつあります。日野さんは御蔵島エコ・ツーリズムの会長をなされており、日本最大のスダジイを発見されたのも彼です。伊豆諸島では797本の巨樹が確かめられており、これは全国の約8%にあたります。この内、御蔵島の巨樹は491本、伊豆諸島の巨樹調査が進むまでに日本一の巨樹県で
あった新潟県が432本ですから、いかに歴史が古く、巨樹が良く残されたところか判ると思います。

 樹雨(きさめ)という言葉は、「森と水のサイエンス」と言う本に最初に紹介されたそうで、「霧を森の樹木が捉えて雨とする樹雨という現象があり、アメリカ大平洋側山地の森では無降雨の夏期に平均して数百ミリの樹雨量がある」と記されています。

 御蔵島の最高点は標高850mの御山で、ここで数十年前にタチハイゴケが確認されたのですが、このコケは日本アルプスでは標高2400〜2500m程に生育することから、御蔵島では気温低下の激変層があると考えられたそうです。東大の高橋基生先生の指導で御蔵島中学生によって気温測定と植物の分布調査が実施され、その原因が断熱圧縮であることが示唆されました。

 御蔵島には、周囲に季節風を遮るものが何もなく、1年中、強い風が吹き付けています。海面から垂直に立ち上がる海蝕崖に吹き付けられた空気は圧縮され、逃げ場を上に求めます。断崖の上は緩傾斜になっていますから、そこで圧縮された気は一気に拡散します。この膨張時に地表面から熱を奪うのです。御蔵島は、緯度的には和歌山県ほどに位置するにも関わらず、下から亜熱帯性、暖温帯性、亜寒帯性、高山性の植物が垂直的な分布を示しているのだそう
です。

 このような地形地勢から、暖かい空気と冷たい空気が混じり合い、或いは、暖かい空気が地面に冷やされて霧が生じます。この霧は、樹木の葉に捉えられ、そして風が吹いたときに、木の葉がそよぎ、水滴となって地面に降り注いで樹雨となのだそうです。実に、御蔵島の年間降雨量は、4500mmを越えています。この循環が、巨樹を育て、樹雨をまた作るというのです。         以上



南風泊通信記より 
御蔵島顛末記−番外編-2 (3/22/02)
       少し古い、2000年の話

 標本の整理、標本の発送(カニ、エビなどは専門家に分析依頼)、お礼状等が大体終わりました。

 さて、御蔵島で求めた「みくらの森は生きている」、「伊豆七島歴史散歩」、文献などを拾い読みしています。「みくらの森は生きている」、これにはガイドの日野さんの写真が沢山出ています。巨樹がメインテーマの本ですが新しい言葉に出会いました。

 樹雨(きさめ)という言葉です。画家の平岡忠夫氏が巻頭で紹介しています。懐かしい言葉も出てきました。それは、「断熱膨張」。

 樹雨(きさめ)って、なにか佳いと思いません(早く、言えとかいわないで)何を連想されるでしょう?僕の家は「村雨(むらさめ)」というソバ屋でした。「急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる秋の村雨」だったと思います。


南風泊通信記より 
御蔵島顛末記−番外編-1 (3/13/02)
       少し古い、2000年の話

 御蔵島は伊豆諸島の中で噴火の歴史が古く、既に死〔休)火山となっています。国立の地質調査所の報告書によると、数十万から数万年前に海底火山の噴火によって出来た島です。同調査所の磯部部長にお聞きしたところ、溶岩と火山灰が交互に堆積して出来た成層火山で、最初は富士山のような形をしていただろう。その後、降雨、風、波
の浸食によって次第に柔らかい部分が削られ、現在のような形になった、ということでした。

 当然、しばらくは無生物の状態だったでしょう。雨もどんどん地中にしみ込み、川が出来たのはいつ頃なのかは判りません。最初に島の上に現れた生物は鳥か昆虫か、蜘蛛か、植物かも判りませんが、植物が育ち土壌を作り、川が発達し、それから動物の大量移入が起こったのではないかと考えられます。スダジイとタブノキの分布を調べた研究者は、他の活火山のある伊豆諸島では、この2種が混生して居るのに対し、御蔵島ではほぼタブノキ群落からスダジイ群落に移り変わっている処が多いことから、御蔵島での植物群集の歴史が長く、火山活動は今から7千年前位に終結したのではないかと考えています。

 そこで気になるのが、川への水生生物の移入経路です。あるものは水鳥の体や糞から入ってきたかも知れません。ところが、魚、カニ、エビ等は海から入ってきたと考えざるを得ないのです。乾燥は致命的ですからね。そこで、現在の御蔵島の地形を見ると、ちょっと厳しい険しさです。

 ここで、オオウナギを例にとると、この魚は日本では太平岸の島や九州、四国、本州などの池や川に分布しています。ウナギと同様に、川で生活をして、海に下り、どこかの海で産卵します。産まれた子供は先に紹介した透明な仔魚(葉形幼生:レプトケファルス)になり、その後、変態して細長いウナギ型の稚魚(シラス)になります。そして新月の夜、川に上ります。
 このように、淡水と海水を行き来するのを両側回遊と呼びます。

 養殖ウナギは、このシラスを採集して育てています浜名湖が有名ですが、最近は人件費の安い中国に輸出し、中国で育っています。春に河口でシラスを掬うのです。

 ウナギもオオウナギもその生活史は大体同じだろうと考えられています。となると、現在、御蔵島に住んでいるオオウナギは、どこかで産まれたシラスがどうにかして崖を上り、川に入ったはずです。標本の化学分析から、オオウナギの地理的なルーツを求めたいと思っています。また、御蔵島のオオウナギが海に下り産卵すると子供はまた、御蔵に戻るのかどうか?これは、秋の調査のメインテーマになります。屋久島での研究では、秋がシラスが川を上る(遡上)のピークら
しいのです。そこで、新月の夜に、カンテラを炊いて河口部に近寄るシラスを捕まえ、御蔵島の成魚と遺伝的な比較をしてみたいのです。

 次に、他の魚はどうかです。それを今回、確認できなかったのが残念です。両側回遊をする魚は沢山います。すなわち、海には河に上る習性のある魚の子供が何処でも漂っている可能性があるのです。問題は、オオウナギのように垂直に近いところをクネクネと上ることの出来る魚はそう多くないと言うことです。期待していたのは、ハゼの仲間で、腹鰭が吸盤になっていますので、滝の脇の岩などを上る強者が居ます。

 それにしても、現在の地形ではかなり困難でしょうしかし、まだ、なだらかなところがあった時代に川が出来ていたとすると、海から進入し、そのまま、淡水生活者になってしまうことも考えられるのです。これを陸封されると言います。或いは二次的な淡水魚とも
呼びます。ヤマメ等がそうではないかと考えられています。陸封の例証にはもってこいの地形と歴史を持った島だと考えています。
 長くなりましたが、御蔵島の調査の主題は以上のようなものです。


御蔵島顛末記ーその5 (2/25/02)
  少し古い、2000年の話

 さて、朝食を終え、南西風は一層強まりましたが、雨は小雨程度に落ち着いています。ヘリは午前中に八丈島から島伝いに北上して大島まで行き、午後に復路となります。午後3時50分、御蔵発で八丈島まで25分。運航の最終決定は2時40分頃だそうで、飛ぶにしても時間がある。片づけられる物だけ荷を作り、桟橋付近の川を調べました。部落を流れる川は岸壁添いの垂直の3面側溝となって海に落ちています。高さは50m位あるので、これをウナギが上るとすれば、凄いものです。

 港近くに、小さな流れ込みがあり、ここに溜まった落ち葉をより分けていると、カニが出てきました。アカテガニのオス、メスと不明なカニのオスの3匹を捕まえました。陸生のカニも、子どもは海で育つのでこれも貴重な標本になりました。他にミミズの標本も捕って、それで調査は終わりにしました。

 それから、部落の神社と巨木を見て回りました。資料によると、江戸時代まで浄土宗万蔵寺があったそうなのですが、廃仏毀釈運動で取り壊され、現在は島民全体が稲根神社の氏子となり、冠婚葬祭は全て神道で執り行われているそうです。このために、お盆もお彼岸もないそうです。稲根神社の鳥居の脇には江戸末期に御蔵島に漂着した米国
のバイキング号の記念碑と大きな碇が残されていました。

 社の周囲には、スダジイの巨木があり、根が左右に張りだして、琉球列島のサキシマスオウのような雰囲気でした。そうこうしているとヘリの爆音が聞こえ、また飛び立っていきましたが、方向が逆です。なんと北ではなく南に飛んでいきます。民宿に戻って聞くと、利島、大島方面が視界不良のため、八丈に戻ったというのです。昼飯を食べ(ウナドンでした!)、どうなることやらとフテ寝していました。

 3時少し前に役場より電話があり、八丈から御蔵に飛ぶが、状態が悪ければ、途中で引き返すというのです。3時15分までに搭乗券を買わないとキャンセル待ちに権利を渡されると言うので、大慌てでヘリポートに行きました。荷物は5キロまでで、高い超過料金を払い、プレハブのような搭乗待合室兼管制室で雑談しました。ここでもウナギやカニの新しい情報を得ることが出来、モクズガニの生息も聞き取れました。

 管制官兼切符売りの小父さんが、無線電話でパイロットとやり取りし、ヘリポート周辺の気象状況を伝えています「風は南西、45ノット、時々、突風。東からアプローチした方がいいよー」等とのんびりしたものです。やっとこさで、ヘリに乗り込み、出発。窓から、御蔵島の海岸線を望見できました。不思議と怖いと感じなくて、あっという間に八丈島。ヒョウタン型の島で、北には八丈富士、南には三原山がそびえ、空港と町はまん中にあります。北側の海岸線に小規模なサンゴ礁が出来ていました。

 民宿に泊まり、その夜は松井さんとじっくり飲みました翌日、八丈島の水産試験場を見学に行き、分場長の車で、島の川やため池、地熱発電所等を見て回りました。展示室には、ため池で採集されたオオウナギの剥製標本があり、何と、全長175センチもあったのですよ。

 最後に。日野さんは、オオウナギやカニの採集を知り、俄然、関心を寄せるようになりました。今度、絶対にカニの生態写真を撮ると約束して下さいました。

 御蔵島顛末記1〜5 以上です。お疲れさまでした。


南風泊通信記より 
御蔵島顛末記ーその4 (2/15/02)
  少し古い、2000年の話

 松井さんは「あー背骨のあるやつが欲しい」と繰り返すつらいなー。 夜半より雨、風ともに強くなり、畳を下から突き上げるようなドンという地震が続く。ウツラウツラしていると、松井さんが「水量が増えると回収できなくなる。早く行った方が良い」という。車は昨夜、頼んで置いたのでキーが付けたままにしてあり、直ぐに出発。淵の右手に仕掛けた2本がピンと張っている。松井さんは、ペットボトルを回収している。タリホーと叫びたいのを我慢して、手前の道糸を引っ張ると全く動かない。そのままにして、奥の方をそっと引くとグググという紛れもない魚の手応え。それ程強くない。そっとやり取りしていると暗い水中でもがくウナギの姿が見える。松井さんは未だ気付かない。笑い出したいのをこらえて、引っ張り上げ、針を完全
に飲み込んでいるのを確かめて、「やったー!」と大声を上げた。

 「ほんとや?」と松井さんが応え、水の中を走ってくる走りながらポケットからビニール袋を取り出している。「おおおおおお。針は飲み込んでいるね。よし、よし。もうみち糸を切ろうや」。袋に入れて、しっかり締める。クネクネもがいている。40センチ少しくらい。明るい方に向けると、オオウナギ特有の蛇のような斑紋、大きな黒い目。

 手前の仕掛けをそのままにして、左手の仕掛けを見るとこれはたるんでいる。引き揚げると、なにやら絡まってゴム輪が絡んでいる。「なんでかいな?」と思ってみると、ゴム輪ではなく、ハリスが縮れて輪になっている。プリプリとした粘液のようなものがついて居る。食いついたのだが、体をねじって外したのだろう。粘液はサンプルになるだろうし、もう1尾居たという証拠にもなるので、仕掛けごとビニールに入れる。

 松井さんは膝まで浸かって、もう1本の仕掛けを外そうとしている。残念ながら、これは根掛かりで餌が残っていた。餌にはカゲロウの幼虫が群がっている。他の2つも外れ。やはり、水深の一番深い場所に固まっているようだ。
 
 ペットボトルにはカゲロウの幼虫だけで、エビが入っていない。やはり、日野さんが言うように、土石流でエビは壊滅的な打撃を受けたのかも知れない。エビがオオウナギの主要な餌と思っていたのだけれど、何を食っていたのだろう?と言う疑問が生じた。帰りのドライブは2人ともご機嫌で、「日野さん、何て言うかねー」「オレが言ったとおりだろうと言うよ」などと話した。

 宿に戻って、ビニールから出すと細長い未消化物を吐いていた。どうやらミミズのようだ。測定をし、写真を撮って、頭部と筋肉をアルコールで固定する。他の部分はフォルマリンで固定。粘液もアルコールに浸ける。たった1尾のサンプルだけど、得られる情報は多いはずだ。

 先ず、鰭の鰭条数、脊椎骨数からある程度、何処の地方個体群と近いか、系群判定ができる。胃内容物、性、成熟度、年齢が知れる。頭部の耳石から、日輪が分かり、生後何日かがほぼ正確に求められる。ふ化した時の日輪は特別なので、ふ化までの日数が判る。耳石に含有されるスロトンチウムなどの微量元素量から、海域と淡水域でのおよその生活日数の比率が求められる。そうすることによって、御蔵島からある半径の円が描かれ、産卵水域の推定が可能となるのです。化学分析は福岡歯科大の装置を借りて行います。最近の技術は採集時の生活状況だけでなく、ある程度の生活履歴まで肉薄することを可能にします。

 1尾捕れるか、0尾かでは、その差が途方もなく大きいのです。渉外、会計、資材係兼務の隊長はやっと溜飲を下げました。 ・・・・続く


 

 南風泊通信記より 
 御蔵島顛末記ーその3 (2/1/02)
  少し古い、2000年の話

 大島分川上流部の川田橋で降り、川を覗くとなかなかの景観。本土だったら、イワナが居そうな源流部に近く、「渓流性昆虫の生態学」を表した河児藤吉氏が見たら何と言うだろう。河児氏は、今西錦司と友人であり、ライバル関係にもあり、鴨川の川底の石を全部ひっくり返したという異名を持つが、太平洋戦争で命を失われた。棲み分け理
論は彼の業績による部分も大きい。瀬というものは殆どなく、小さな滝の連続である。小さな淵に巨岩や鉄パイプが散在し、土石流のあったことが分かる。橋より上の方は水源地となっており、立入禁止で、監視カメラが作動しているという。

 松井さんと靴を履き替えたり、準備をしていると、日野さんが「前は、放流したヤマメが居てね。エビも沢山いたけどね。土石流までは・・・」という。昨夜は噴火を撮そうと徹夜だったらしい。そのせいもあって機嫌は良くないこちらは気が気でない。弁当に蠅がたかる。藪蚊やブユはいないようだ。網をもって下ろうとすると、「なんもおらんよ」とまた言う。

 1時間くらい、色々手を尽くしたが魚の気配は全くなし底石の表面の苔にも削られた痕がない。水面にはアメンボが沢山いる、石の裏側にはカゲロウの幼虫がいる。しかし魚はおろか、エビもカニも貝もいない。つまり海から入ってきたと思われるような水生動物が全く居ないのである。水温は17度。かなり冷たい。

 車の処に戻ると、「オレが言うとおりだろう」という顔で日野さんはタバコを吸っている。地図を広げ、他の場所の情報を得ようとするが、萎えるようなことばかり言う。「隊長、どうするよー」。再び、聞きたくない台詞。「飯でも食いますかー」というと、それどころじゃないとにらまれる。

 水源地の下に小さな淵があったので、「あそこなら、もしかするとオオウナギの1匹くらい残っているかもね。まあ、無理だろうけど」という日野さんの言葉に、釣りを仕掛けてみましょうと提案。「仕掛けはあるの?」というで、ある、あると答え、餌を買いに行くことにする。

 よろず屋で、冷凍塩サバを見つけ、これを餌にする。展望台でおにぎりを食っていると、役場の小林さんがやってきて、明日のヘリがとれたが、明後日はキャンセル待ちという。ただし、天気予報は極めて悪いそうだ。何か明るいニュースはないのかねーと思いながら、おにぎりのかけらを残す。穴を開けたペットボトルに入れて川に沈め、エビが入るのを期待する。三宅が見えるが、煙は出ていない。

 ワイヤ仕掛けの大物用と、テグスの小物用の仕掛けを日野さんに見せると、顎で小物用を指し示す。光るサバの皮が目立つように皮を外側に針に縫いつけ、淵に3本、下の滝の影に2本、置き針を仕掛け、ペットボトルを2本、川底に沈める。明日の朝、見に来て、糸がピンと張ってればビンゴ!である。
 日野さんにタブノキとスダジイの木を教えて貰う。「へー、よく似てますね」と言うと、「全然違うけどね」と答える。くやしいなあ。

 集落に戻り、子供達が遊ぶという西川の水たまりに行く。ここで、ヌマエビ類を見つけ、採集。1尾は抱卵している。初めての成果で、少し、和む。その後、西岸側の川の様子を見に行く。こちら側は、水が枯れる場合があるそうで、
望みがない。

 1日歩いて、エビが5尾。でも、風呂に入り、乾いた服に着替えた後のビールとクサヤは最高に美味かった。午後から御蔵も揺れ始める。民宿の親父さん(広瀬さん)がモイヤーさんの知り合いなので話が弾むが、眠くなってしまい、8時には2人共に寝てしまった。  ー 続く ー



南風泊通信記より 
御蔵島顛末記ーその2(1/26/02)
       少し古い、2000年の話

 三宅島東岸の三池港に接岸すると、報道員達が大騒ぎで下船。船の中は急に寂しくなりました。船員が「三宅島で下りる人はもう居ませんね?」と見廻りを終えてドラが鳴る。近くに小父さんが居たので、「御蔵ですか?」と聞くと「そうです」という。しめたと思って、「御蔵、寄ります?」と聞くと、「さあ、わたしははじめてだからねー。どうですか?」。
 朝食を食べて、御蔵を見ました。まるで、マフィンのような島です。小さな岸壁に接岸し、下船。垂直に近い崖で島は取り巻かれています。港には建物は無し。こんな岸壁に接岸できるのはスラスタースクリューのお陰でしょうね。余程、波をかぶるのでしょう。漁船は全て陸に揚げられています。錆だらけのワゴンの側で辺りを見回しているおばちゃんが民宿の人だと思って声を掛けると当たり。「来ないと思ってましたよ」というおばちゃんの車に乗り、急な坂道を上ると部落。ホタルブクロ、アシタバ、桑、松等が生えています。平地はなく、斜面に家が建っています。その道路をダンプが走ります。

 同じ民宿には国立科学博物館の菌類の研究グループも投宿。挨拶を済ませ、テレビを見ながらしばらく仮眠。調査準備をして、9時に役場に行きました。その途中の道の急勾配には脱帽。あえぎました。役場の前にヘリポート。その時はヘリに乗るとは全く思いませんでした。

 役場の小林氏が「来られましたか?」と迎えてくれた。次の第一声がなんと、「帰りはどうされます?」でした。「29日の黒潮丸で三宅に渡り、そこから飛行機に乗る予定でした」と言うと、「三宅空港はしばらく閉鎖でしょうまた、黒潮丸はエビネ丸と違って三池港が母港だから動くでしょうが、露天甲板で野菜などを運ぶので、雨の時運
航しません。明日から大雨の予報ですよ。ですから、多分無理でしょう。いずれにしても三宅は計算から外した方がよい。ヘリで八丈に渡り、そこから東京へ行くしかないでしょう。ヘリだって、飛ぶかどうか分かりませんけど。それとも、来週の月曜日までストレチア丸を待ちますか?。御蔵に入る保証はないけど」と言われ、再び、絶句。
 頭の中では飛行機のキャンセル、宿泊代、ヘリ代など赤
い数字が点滅開始。

 聞いてみると、ヘリは9人乗り。少々の風なら飛ぶが、視界不良と雷には弱いという。

 隊長は決断せなならんので、結構きついね。明日と明後日、2日分のヘリと八丈ー羽田の飛行機を押さえて貰うようお願いし、調査の相談。水量の豊富なのは東岸の大島分川と南岸の平清水川の2つ。平清水川は陸からのアプローチが難しいという。また、御代が池は国立公園の第1種保護地域で環境庁の許可が間に合わず、今回は断念。ガイド役の日野さん(御蔵島在住の写真家です)に連絡を取り、役場前から勇躍、出発。天候、小雨。

 大島分川にお願いしますと言うと、「良く来たね。こんな時に」という。「川はどんな魚が居ます?」と聞くと、「なーにもおらん。平成7年の台風の時、土石流で川は滅茶苦茶。聞いてくれたらそう話したのに・・」(ナヌ!川の魚の調査と言うたじゃないね・・・・)。
 隣の松井さんがオイ、オイと言うような顔で見る。・・・・・ 
隊長のぼやきが続きます(続く)




御蔵島顛末記ーその1

 大学院の頃、三宅で潜っていたとき、空港や長太郎池の付近からいつも御蔵島を見ていました。不思議な格好の島だなあ。周囲は垂直な断崖です。マフィンみたいと思っていました。モイヤーさんや横須賀博物館の林 公義さんが「あの頂上には池があり、そこにオオウナギが居る」と話すのを聞いてから、とたんに見る目が変わりました。
 
 ウナギと言えば、両側回遊をする魚です。頂上の池にいるウナギは産卵の時、どう下るのか、そして、子供はどう登るのか?謎だらけです。ずっと、考えていました。ロマンを感じました。研究助成に応募したけど、落ちました。それなら、自前でいっちゃろうとおもい、その時の顛末記です。

 同行者は九州大の松井誠一教授。忙しいのに、僕の提案に「面白いね」と直ぐに乗ってくれました。水を見たら入らずにはおれない性格で、投網の名人です。

 さて平成12年6月26日、午後9時過ぎに羽田へ着きました。魚類採集用のタモ網の柄が機内持ち込みで揉めました。凶器になると言うのです。魚には凶器だが、対人用ではないと言いはりましたが機長判断でダメでした。時間がないので預けにはしたくなかったのですけどね。
 
 浜松町の竹芝桟橋から10時半に三宅、御蔵経由の八丈島行きのストレチア丸が出港するので焦りました。桟橋に急ぐ途中で、釣り人と仲良くなり、株主優待券まで貰ってほくそ笑んでいたら、ターミナルは報道陣の大群。何だろうと思っていると、釣り人が「後2時間後に三宅島が噴火するそうだから、辞めた方がいいよ」と言って来ました。思わず絶句。

 松井さんは「隊長、どうするよー」と言いましたが、「行きましょう。御蔵は三宅の先だから」という隊長の余り意味をなさない判断で乗船。午前4時頃、デッキに出ると海は穏やか。三宅もよく見えますが、噴火は無し。

 さーて、ここで考えました。
ストレチア丸は毎日、三宅、八丈を往復しますが、御蔵に寄港するのは月曜日の出発便だけです。4時半頃に三宅の三池港に入りますが、その後、御蔵に寄港するかどうかは天候と潮流次第です。名にしおう黒瀬川です。保証はありません。船内アナウンスも「御蔵接岸は条件付きです」と繰り返している。

 しかし、三宅で下りても、噴火騒動で三宅ー御蔵間の小型定期船は出るかどうかも分からない。その船は噴火の可能性の高い三宅島西の阿古を母港にしているのですからね。三宅島で足止めを食ったらそれこそ大変です。幸い、海が穏やかなので、御蔵に寄港するのに掛けました。
 これは正解でした。  ・・・・・・・・・続く

編集後記

日本海側では、冬季に卓越する北西季節風を避けるため、南に開いた漁港が多いのですが、南風から逃れる港もあり、これを南風泊と呼びます。下関市彦島にもこフグで有名なこの名前の港があります。すぐ近くに竹ノ子島という島があり、短い橋で繋がっています。中学生の頃、アイナメやウミタナゴを釣りに良く通ったものです。北九州にしては、とても水が綺麗でした。いまでも、まあまあです。
 南風泊漁港という看板を見たとき、意味は分かりませんでした。でも、その語感が好きで、こうして使っています。ノートに旅行のメモや調査に行ったときの雑記を書き付けています。そこから、海や魚に関係するもの、あるいは、好きな風景などを残したことを紹介します。

TOP ページへ