研究レポート No.002

水温徹底調査ー富戸のクマノミ
文・写真 石田根吉

水温徹底調査 - 富戸のクマノミ

 富戸における低水温期の水温とクマノミの産卵との関係を前回報告しました。その際、気掛かりだったことは、基礎データとなる水温が、僕がダイビングの際にダイブ・コンピューターで測定した週に一度の値であり、連続したデータではなかった点でした。

 さて、富戸港の一隅に下の様な小さな建物があるのは意外と知られていません。


 


 これは、国土地理院の験潮場で、日々海面の潮位を測定・記録しています。日本にはこの様な施設が25箇所あり、富戸はその名誉ある1つなのです。
 このお話をした所、余吾さんから、
 「験潮場があるなら、水温の記録もしている筈です」
とのアドバイスを頂き、国土地理院に問い合わせてみました。すると、1994年以降の日々の記録(気温、水温、気圧、風向、風速)を電子ファイルで送って頂く事ができました。そこで、改めて水温とクマノミの産卵の様子を見直してみました。

記録の方法

 1998年3月以前は毎日1度の測定値を以ってその日の温度として記録されています。1988年4月以降は、(恐らく自動測定器の導入により)毎時測定の値を平均して日平均水温として記録されています。
 ただし、1998年3月以前には、未測定日が月に2〜3度ありました。その場合には、当該日の前2日、後2日、合計4日の平均値を以って代用しました。
 また、1998年の9、10月は2ヶ月にわたってデータが欠落していました。仕方なく、1995〜2001年の他の年の当該月の平均値で代用しました。

気温と水温

 まず、1994年1月から2001年12月までの8年間の富戸における気温と水温の月平均を算出してみました。

 気温が、年間で8.6℃(1月)から26.9℃(8月)まで18.3℃も変動しているのに対し、水温は14.9℃(2月)から23.3℃(9月)と8.4℃しか変わっていません。様々な生き物のゆりかごである海という環境が、外界の変化を緩和している様がよく分かります。また、水温が気温より1ヶ月遅れで変動している様子も見て取れます。
 これらは僕も今まで見聞きして来た事ではありますが、富戸という普段潜りなれた海の記録であり、自分でまとめたデータとなると、何だか愛おしさが出るから不思議です。

クマノミの産卵

 さてここで、富戸におけるクマノミの産卵の様子を以下にまとめました。産卵の期間・回数・ペア数などはすべて僕が直接観察した結果に過ぎません。数年前と現在では僕の関心もスキルも異なるでしょうから、これが富戸におけるクマノミ産卵の正しい状況を反映しているかどうかが大きなポイントになると思います。

  年          クマノミの産卵 印象
 1995  盛んに産卵 
   (7/23〜8/15 ; のべ4回 / 3ペア)
 ◎
 1996  春の低水温でクマノミ全滅  
 1997  前年漂着クマノミが越冬したが産卵に至らず  ×
 1998  雌雄に分化したペアもいたが産卵に至らず  ×
 1999  寂しく産卵始まる
   (10/24 ; のべ1回 / 1ペア)
 △
 2000  盛んに産卵
   (8/15〜9/10 ; のべ5回 / 3ペア)
 ◎
 2001  寂しく産卵
   (8/16 ; のべ1回 / 1ペア)
 △

 
 表の様に、富戸のクマノミは7月下旬〜9月上旬ごろに産卵期を普通迎えます。
 ところが、1996年春の長期の低水温によりクマノミは全滅してしまいました。それでも、その夏に漂着したクマノミの幼魚のいくらかは越冬する事が出来ました。
 しかし、1997年夏の産卵期には越冬クマノミたちは、それまで見てきた成魚の体長(10cm程度)に達することなく、未成熟であるとの印象を受けました(あくまで僕の記憶であり、測定値も記録もありません)。
 しかし、1998年の夏には十分に成長し完全に雌雄に分化したペア(黄色と白の尾鰭のペア)が幾組か見られました。にもかかわらず産卵は確認できなかったのです。但し、これらのペアが1997年夏に漂着した幼魚達なのかどうかまでは確認できていませんが、状況から見ておそらく定着後2年目の個体だと思われます。
 そして、1999年10月になって、全滅以後初の産卵が見られたのでした。
 それ以降、消長を繰り返しながらも昨年夏までクマノミの産卵は継続してきました。

積算水温

 それでは、水温の推移とクマノミの越冬、産卵との対応を見てみましょう。

 一般に、長期にわたる水温の影響を考える場合には「積算水温」を用いるそうです。積算水温とは毎日の日平均水温の和の事です。 例えば、おととい・昨日・今日の日平均水温が15.5℃・16.0℃・16.5℃だとしたら、3日間の積算水温は
  15.5 + 16.0 + 16.5 = 48.0 ℃
という事になります。
 そこで、毎年の低水温期(1〜4月末)と産卵期(7〜9月)の積算水温を以下に図示しました。

  クマノミが全滅した1996年低水温期の積算水温が飛びぬけて低かったのがよく分かります。また、この年の2月の月平均気温も14.0℃と、今回の記録の中で最低値を記録していました。
 しかし一方で、どうして2000年はクマノミの産卵が盛んであったのに1999年や2001年では低調であったのかはこれではうまく説明出来そうにありません。また、雌雄に性分化した成魚ペアが既に居ながらも産卵が確認できなかった1998年も2000年に比べて不利な条件とは思えません。

 ちなみに、水温の全体的な流れとして、1998年以降は冬季の水温は高めに推移しているのに、夏季は逆に低水温になっているという興味深い傾向が見られました。串本における同様の傾向が、本HPの閲覧室に宇井晋介さんが報告なさっています。参照下さい。

 さて、クマノミの産卵というのは、冬季や夏季の2〜3ヶ月の水温ではなく、秋に産卵を終えてから翌年の初夏に産卵の準備に入る頃までの長期間にわたる水温の影響を受けているのかもしれません。そこで、前年10月〜当該年6月の積算水温を算出してみました。


 こうして見ると、2001年というのは、クマノミが全滅した1996年期と変わらぬほど低い積算水温しかなかった事になります。また、産卵が盛んだった2000年期もこの期間の積算水温は決して高かった訳ではないのです。
 長期間の積算水温と越冬や産卵との明確な関係は見出せそうにありません。

低水温・高水温日数

 そこで、冬季に一定値以下に水温が低下した日数、夏季に一定値以上に水温が上昇した日数をそれぞれ算出してみました。


 クマノミが全滅した1996年の低水温日数はやはり他の年より長期に及んでいた事が分かります。また、ここでも、1998年以降は冬の水温は高めに、夏の水温は低めに推移している傾向が確かめられました。
 一方で、クマノミの産卵との明確な相関はやはり見られそうにありませんでした。

ダイバーによる水温の記録

 最後に、僕が週に1度の潜水中にダイビング・コンピューターで記録して来た水温と験潮場の水温を比較してみました。
 僕の水温記録の方がやや低めに出る傾向があるようでしたので、「験潮場水温で15℃を下回った日数」と「僕の記録で14℃を下回った日数」を比較してみました。


 僕の水温記録では、2000年の値だけが験潮場水温の推移と大きく異なっていましたが、そのほかの年ではかなりよい一致が見られました。よって、たとえ週に1度であっても、ダイバーが水温を記録していく事は十分に意味のある事だという確信を得る事ができました。特に、ダイバーの測定する水温は、験潮場が測定している「表層水温」ではなく、魚たちが暮らしている「底層水温」であるので、その重要性は一層高いと考えるのです。

 皆さんの中に、水温を記録しておられる方、或いはクマノミの産卵についての記録、記憶、印象をお持ちの方は是非お知らせ頂くと幸いです。

まとめ

低水温期の積算水温が或る程度低くなるとクマノミは越冬で
 きない。
・長期の積算水温はクマノミの越冬と関係がない。
・低水温期の積算温度が低くなくともクマノミの産卵が低調な年
 がある。
・長期の積算水温とクマノミの産卵とは関係なさそうである。

 う〜む、水温データは正確かつ詳細になったのかも知れませんが、結局ますます訳が分からなくなってしまいました。
 もっと長期にわたって観察を続けると共に、クマノミの産卵状況の精度をもっと高める事が必要であると思われます。

 しかし、日々の水温のデータを自分で加工して(といっても実際に計算しているのはパソコンですが)あれこれ考えるという作業は、小学校の夏休みの宿題みたいで楽しいひと時でした。

謝辞

 海水温度データを入手するなんて容易な事だと当初考えていまいした。そんな基礎記録ならば、海に関する機関や事業所が保管しているだろうと思っていたのです。ところが、実際には、そんな記録を取っていなかったり、取っていても整理していなかったり、或いは見せて貰えなかったりと、意外な状況に戸惑が続きました。
 そんな中、富戸の水温という最も欲しいデータを提供してくださった国土地理院測地観測センター地殻監視課、特に担当の菅原さんに深く感謝いたします。



事務局より:こうして、足かけ8年間の記録を見ていると、富戸に現れ、定着
するクマノミ達が、ぎりぎりの状態で、越冬、産卵しているのだという印象を強く受けます。暖かい水温を好む磯魚幼魚の季節的消長については、南紀白浜での桑村哲生さんの論文がありますが、繁殖の有無については、経験則的に色々話にはなっても、こうした水温データとの対比からの検討はなされていなかったと思います。
 結果的には、あまりすっきりしませんでした。石田さんと色々考えてみたのですが、水温データのどの分を抽出すればよいのか?(どの部分が一番効いているのか?)が、掴めないのですね。今後、水温と生物に関する研究をよく勉強してみたいと思います。
 1997年は、成熟サイズに達していなかったとみられ、これは除外して良いと思います。1998年は、ペアがそれぞれオス、メスに性分化を終えていたわけですから、繁殖が見られなかったのは、水温などの環境要因か、あるいはペアの成熟の同調がうまく行かなかったというようなクマノミ自体の原因なのか、今では分かりません。
 水温は魚類の繁殖に最も強く影響する環境要因であることは確かだと言えますが、今後、富戸での調査を続けていけば、繁殖に大きく影響する水温がどの辺りにあるのかが掴めてくるだろうと期待されます。また、産卵の有無や越冬の可否だけでなく、水温と生活の様々な関係にも新たな知見が得られるのではないかと思います。
 水温の記録をきちんと採ることは大事だと改めて感じました。また水温計(ホームセンターで300円くらい)と自分のゲージの測定値を比べておくことも必要でしょう。
 最後に、このレポートはAUNJ会員からの最初の本格的なレポートであり、
根気を要した調査であり、データの収集でも工夫されています。また、力作でもあります。完成を祝して、NEWS LETTERに掲載する次第です。

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