9ー1.ウミタナゴの胎仔 04/02/04 余吾 豊
1)恵太郎先生
ウミタナゴに興味を覚えたのは、故内田恵太郎先生の「稚魚を求めて」(岩波新書)がきっかけである。古本屋を探せば、まだ手に入る。探しだして、手に入れられるようお奨めします。ウミタナゴの話を始める前に、恵太郎先生のことを語るのが筋道というものだろう。
3/31、福岡県宗像郡津屋崎町宮地にお住まいの本田輝雄さんをお訪ねした。内田先生と長くご親交のあった方で、九州大学農学部水産学科の技官をされていた。僕も、本田さんには、網の修理方法、魚の飼育方法、船の運用、ロープワークなどで随分とお世話になった。
本田さんは、昭和28年に熊本県天草郡苓北町富岡にある九大農学部付属水産実験所に技官として任用された。その頃、内田恵太郎先生は福岡市東区箱崎にある九大農学部水産第二教室の教授をされており、毎年、夏に行われる臨海実習の指導のため、富岡を訪れていたという。この時代は、陸路から富岡に行くのは無理で、長崎県の茂木か、熊本県の合津からの定期航路を利用するしか公共の交通手段が無かった。茂木からの航路は外海である天草灘を抜けるため、相当に時化ることがあったが、元来、船に強い先生は、さして気にして居られなかったそうだ。
図1 内田恵太郎先生
本田さんから見れば、恵太郎先生は既に中年となられた偉い学者であったが、未だ若かった彼は、指導教官として薫陶を受ける、あるいは同じ大学の教授にお仕えすると言うよりも、魚のスケッチが上手で、素潜りの上手いおじさんという思いで接していたという。「そんなスケッチをして何になるのですか?」と聞いたこともあったらしい。当時の学生、院生などが口にしたとしたら、暴言に等しい。「そうだね。只、好きだからね。今日は雨で、海に行ってもつまらないし」と呟いていたそうだ。
釣り採集にも同行したそうだ。当時は伝馬だから、本田さんが櫓を漕いで、近くの海で釣りをした。ある若手の教官が同行した時、先生がテンスを釣った。しかし、釣りはお上手なのに、自分で釣り針を外そうとはしないで、その教官に、「君、外してくれたまえ」とテンスを目の前に吊り下げた。その教官はテンスを見るのは初めてだったそうで、無警戒に魚体を掴み、たちまち、噛み付かれたという。テンスの犬歯は鋭いなんてものではない。ニジギンポの歯はカミソリだが、テンスのは手鈎に等しい。顔をしかめている教官をニコニコしてみながら、「こいつは体を反り返しても噛みつこうとする凶暴な魚だね」などと話していたそうだ。
恵太郎先生は、神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子で、育ちがよいせいか、少し、人をからかうような面があったという。福岡市の水族館での飲み会で、そこの館長だった白根さんと、ビールを溲瓶に入れ、お○にカレーを入れ、痰壺に酢ガキを入れてふるまうなんてことをやらかしたらしい。新聞に紹介され、偉く有名な話になったそうだ。北 杜夫の「ドクトルマンボウ 青春記」を思い出してしまう。学生や若い教官には良い意味での厳しい指導者であったが、そんな茶目っ気も併せ持っておられた。
僕は、「流れ藻会」と呼ぶ同門会で数度、お目に掛かったことがある。「何を研究しているの?」と聞かれ、「ハゲブダイとカミナリベラの繁殖を調べています」と答えた。「そうですか。あー、ハゲブダイは九大の学芸雑誌に出ていたね。卵は楕円形でしょう」と受けて下さったのがとても嬉しく、忘れることができない。
内田恵太郎。明治29年12月27日、東京神田に生まれる。岸上謙吉教授に師事。東大農学部水産学科を卒業後、同大、副手、講師となり、その後、朝鮮総督府水産試験場技師を経て、昭和17年に九州大学教授となる。昭和35年、同大を定年退職。同名誉教授。専攻は、魚学、水産動物学。趣味は、読書、書画、散歩、和歌。お酒も大層、お好きであった。
晩年、奥様のさち子さんに「良い人生だった。でも、本当は大学の文科へ進みたかったのだけどね」と漏らされたという。
恵太郎先生は昭和57年3月3日に急性心不全で他界され(享年85才)、ご遺志により、ご遺体は九大医学部に献体された。
昭和58年(1982)、恵太郎先生に直接の研究指導を受け、水産第二教室の後任教授でもあられた塚原博先生が発起人となり、先生が開成中学時代から書き残された和歌を集成し、さち子さんとの共編で、歌文集「流れ藻」(非売品)を西日本新聞社から発行した。
その中から、「シロウオ発生之賦」の6首を紹介する。これには、1週間にわたる受精からふ化までのサクラシラウオ(日本には産しない。当時は朝鮮半島が日本の領土であったから、和名が残っているのだ)の発生過程が、19
枚のスケッチと約50首の連作となった和歌で克明に綴られている。昭和10年4月、恵太郎先生は、黄海側錦江河口の群山にある旅館の一室で、不眠不休のまま観察と記録を続けたのである。この間に、先生は多くの和歌を残した。
白魚の卵採りたり水泡なすかぼそき胎に満ち満ちてる卵
無垢無色輝く卵玻璃に取り雫たらしぬ雄の身の精
混沌をみづから理めみづからの形作りゆくいのちの不思議
身に満つる生の力におのづから身悶えしけむこの胚体(エンブリオ)
無念無想静まり住みし円き家いまは狭しと身悶え止まず
ひとやの壁つひに破れば外もより冷たき水の身に沁みわたる
ウミタナゴを詠んだ首は無いかと探してみました、見あたりません。出会えたら紹介します。
「流れ藻」の終章は、さち子さんが入院して「本断ち」をする先生の苦悩が描かれています。
2)ウミタナゴの交尾と受精
福岡県宗像郡津屋崎町におけるウミタナゴの交尾時期は9月上旬から12月上旬で、出産は5〜6月である。妊娠期間は約5、6ヶ月であるから、受精は交尾期が終了する12月頃に起こっており、受精が交尾よりかなり遅れてから起こるものが多いとみられる。このような交尾と受精のズレは、メスの卵巣内での卵成熟が交尾盛期には不十分な為である。これが、いわゆる至近要因である。
なぜ、ウミタナゴは、卵が成熟していない時期から交尾をするのだろうか。もう一方の至近要因として、オスの精子の成熟が卵の成熟より早く起こると考える向きもあるだろう。しかし、精子というのは成熟に時間やエネルギーを必要としない。ウミタナゴの場合、体が大きくなって居れば、オスは、1年中、精子をもっている(或いは作り出すことができる)と考えて良いので、この見方は捨てた方が良いだろう。問題は、交尾と受精時期のズレについての、「生態から見た解釈の仕方」だろう。
「なぜ、交尾はそんな早い時期に起こるのだろうか?」との疑問の究極要因を、ウミタナゴ類の研究者である桜井 真さんに伺ってみた。
余吾 wrote:
> ウミタナゴや温帯のアナハゼ類の交尾期と受精の時期のずれについて、かねてより
> 興味を持っていました。受精の時期は仔魚や稚魚の生残に好適な季節からの逆算で
> 決定しているとして、交尾をそれよりもずっと前から始めている生態的な要因には
> どのようなことが考えられるのか、ご教示下さい。
桜井 wrote:
「交尾の時期が前にずれる」→「交尾から受精までの時間が長くなる」→「交尾期が長期間にわたる」ということになると思います。このように置き換えてみたいと思います。
・・・・ナールホドナー
桜井さんの原文が長いので、以下、すこしカットしてまとめました。
長期間(1〜3ヶ月)にわたる交尾期間について、考えてみます。
長い交尾期間
1)雌にとって:複数の雄と交尾できる(→精子競争:雌の卵巣内で複数の雄の精子が蓄えられ、排卵される卵への授精を争う)、交尾する雄をじっくりと選択できる(例えば、長期間、縄張りを維持し、求愛する能力のある雄を選択できる)利点があると思います。
2)雄にとって:複数の雄が雌と交尾するチャンスが増加する。仮に、優位の雄が交尾を独占しようとしても、大きなコストがかかり、困難であろう。卵生魚であれば、雌の産卵周期(潮汐)や産卵時刻に合わせて雌を他の雄からガードすればよいが、胎生の魚ではそうはいかないだろう。
交尾型だと一日中すべての雌を他の雄からガードする必要があるが、それは不可能なのではないか。実際、交尾型魚類では一夫多妻の婚姻形態は知られておらず、雌雄共に複数の相手と交尾する乱婚型の婚姻形態になっている。
これらの雌雄の、利益とコストのトレード・オフから、長期にわたる交尾期間が、生殖年周期のパターンとして安定し、その結果として交尾期と受精時期がずれる原因に繋がっているのではないかと推察しています。以上。
3)胎仔の成長・形態
図2 全長25cmのウミタナゴから出てきた胎仔達。全長35mm。
全部で61尾。半透明のピンクの子宮(正確には輸卵管)に入っており、大部分が母親と同じ方を向いていました。この全てが健やかに育って産まれるかどうかは知りませんが、どれも良くサイズが揃っています。各鰭が成魚に比べて広いのが分かると思います。毛細血管が密に分布しており、ヒレの表面から栄養分を吸収するのですね。消化管には糞が一杯詰まっています。鱗が出来ていますが、未だ、色素が無くて透けているのです。左上の隅に1枚の鱗が写っていますが、体液にまみれて茶色に見えてます。
以下、「稚魚を求めて」から、恵太郎先生の記述を紹介する。
ウミタナゴの卵は非常に小さく、直径0.6 mm 、実質はもっと小さい。栄養となる卵黄はとても少ない。受精した後、全長6 mm
で口が開く。胎仔の口を通って肛門から出ていく体液の流れを顕微鏡で見ることが出きる。この時、血球が通過しているが、肛門から出てくる血球は形が壊れていない。栄養となるのではなく、酸素を供給しているのではないかと考えている。全長15
mm 程になると鰭ができ、全長3〜4cmになると、各鰭が大きくなり、その中に毛細血管が発達して密になる。
本ではもっと詳細に描写されていますが、この辺で。
胎仔は卵黄を吸収した後は、母親が卵巣内に分泌する体液をミルクとして体表から取り入れていますが、これくらいのサイズで鱗ができるために、体表からの吸収効率が悪くなります。それで、鰭の面積を拡げ、そこから取り入れるのです。
桜井・中園(1990)から、少し、補足しましょう。
ウミタナゴ科魚類の妊娠中期の胎仔は、以下の1)〜3)の特徴を備えている。
1)後腸部が肥大する
2)背鰭、尻鰭、尾鰭が発達する
3)体表および鰭膜には毛細血管が高密度に分布する
出産直前の胎仔を卵巣から摘出して観察した結果では、1)の形質が消失していたが、2)と3)の特徴は収縮または消失する傾向にあるものの、完全に失われてはいなかった。摘出後、約1〜4時間の間に鰭の収縮、体側の銀白色素胞の出現が起こり、摘出後または出生後30〜48時間で前記の胎仔の特徴は殆ど消失した。
産まれるのは全長50-60mm位で、その時には体は親と同じ色となっています。尾鰭の方から出てきます。いわゆる「逆子」で、このことを忌み嫌い、妊婦には食べさせない漁村もあるようです。
61尾の胎仔は、全て、ポン酢、大根オロシ、一味唐辛子で頂きました。ハゼ科のシロウオよりも味が濃く、美味しかったです。さて、ウミタナゴの母親はお煮付けにしました。とっても美味しく、食べる途中で、「鯛のタイ」で有名な肩帯の骨をみると、この胎仔の顔にそっくりでした。
文献
桜井 真・中園明信.1990.水槽内でのウミタナゴの出産と出生後の若魚の形態変化.魚類学雑誌、37(3):302-307.
内田恵太郎.1964.「稚魚を求めて」.207 pp.岩波新書.
内田恵太郎.1983.内田さち子・塚原 博編.歌文集「流れ藻」.250pp..西日本新聞社.